ニーチェの石器

ニーチェの石器 1話

「忠実な学徒にして誠実な友、自然を愛した人。〝物質界でも精神界 でも最後に判定を下すのは権威ではなく、観察と実験である〟との 信念を抱いていた人、それが松浦君であった」 エドワード・S・モース

一  祭りの準備

 ニーチェ先生こと勝坂豊は息を切らして、マンション近くのコンビニまで走った。一睡もできず、やっと長い夜が明けると上着を引っ掛けて、コンビニに出かけた。駐車場でコンビニの配送車が荷物を下ろしていた。勝坂が息を整え、店内に入ると店員のいらっしゃいませの元気な声が聞こえた。店内にはまだ客の姿はなかった。入口脇の新聞紙受けのラックに目当の毎朝新聞を見つけると、一部引き抜いて落ち着いた素振りでレジに向かった。
 百円玉硬貨を取り出す手が震えた。落ち着こうとすればするほど手元が震えた。訝しげに店員が勝坂を見守っていた。勝坂はごまかし笑いを浮かべ、レジ袋は要りますかと尋ねられても断り、店を出た。なにかに追われるように早足になっていた。勝坂は落ち着けと自分に言い聞かせた。勝坂はマンションの玄関に駆け込むと、新しいインクの匂いのする新聞紙を開いた。目当の記事が一面トップに大きな活字で踊っていた。

毎朝新聞 二〇二〇年十一月五日

〝 旧石器遺跡発掘ねつ造

 T県で発掘調査が行われていた下高森遺跡で関係者が石器を埋めていたことが判明した。四十万年前の遺跡として、大きな注目を浴びていたが、関係者Sが遺跡発掘現場で早朝に石器を埋めているのを毎朝新聞が写真とビデオにおさめた。
 一週間前に下高森遺跡では四十万年前の石器が出土したと大々的に記者発表を行っていた。毎朝新聞は記者発表前に既にねつ造現場の証拠はつかんでいた。Sが埋めた石器が四十万年前のものであるとの記者発表を待ってから、Sに埋めた事実を追及した。
 当初Sは否定していたものの、石器を埋めている証拠のビデオ、写真を見せると、うなだれて「魔がさした」と事実を認めた。下高森遺跡以外ではねつ造をしていないとしている。
 しかし、他の遺跡でも石器を埋めているかのような不可解な行動を確認しており、他の遺跡でもねつ造が行われていた可能性は否定できない。Sは前期旧石器遺跡の調査のすべてに関わっており、神の手とまでいわれた人物であった。

 前期旧石器遺跡の発見は今から四年前の高森遺跡が初めてで、それまで日本列島の後期旧石器の定説では三万年前までしかないと考えられてきた。高森遺跡では五万年前の地層から石器が出土し、日本にも前期旧石器時代の遺跡があることが立証され、新たな学説と注目された。
 ここ四年間で十遺跡ほどの前期旧石器遺跡が見つかっていた。年代も五万年から最近の調査では四十万年前まで遡る遺跡が相次いで発見され注目を浴びていた。日本にも中国の北京原人と同年代か、さらに古い人類が生存していたのではないかと、教科書にも掲載されていた。新たな前期旧石器遺跡の発見を手がけてきたのはR大学で学会をリードしてきた。
 今回のねつ造発覚で今までの調査にも疑いが出るのは避けられず、考古学会、歴史学会に大きな影響が及ぶ可能性が出てきた。〟

 これからどうなるのか想像もつかなかった。今日の毎朝新聞の特ダネスクープでマスコミ関係者が大挙押しかけてくるだろう。そして血祭りにあげられる。学部長の鬼高恭平にはことの次第は昨夜のうちに伝えてあった。
 考古学の重鎮鬼高は勝坂の報告を初めは冗談だろうと笑って聞いていたが、最後は頭を抱え泣き出さんばかりだった。

二  遅れてきた青年

 R大学の近くの居酒屋石亭はカウンターと座敷に座卓が二台あるだけで、十人も入れば満席になる狭い店だった。ミリタリールックの安行言人が店内を覗き込むと、石亭の大将夏島淳也が調理場の椅子に暇そうに腰かけていた。言人は客のいない店内を見まわし、カウンターの椅子を指さした。
「お好きなところに」と痩せた四十がらみの大将が頷いた。
 言人は大きなズタ袋を床に下ろし、どかっと椅子に腰を下ろした。
「ワイン」と言人はモジャモジャの頭をかきながら注文した。
「ワイン?居酒屋にそんな洒落たものは、ない」と大将は愛想がなかった。あまり商売気のない大将らしい。
「ビールはあるよね?」
「生?ビン?」
「大ジョッキー」
 大将は生ビールを注ぎながら胡散臭げに言人をチラチラうかがっていた。大将がジョッキーを運んでくると言人はカウンター脇の置物に目をやり、顎でしゃくり、
「あれ本物?」
「遮光器土偶も知らないのか?国の重要文化財が居酒屋にあるわけないだろう」大将は呆れていた。
「教科書にも載っていただろう」
 宇宙人か?顔は亀か蛙がトンボメガネをかけたような置物だった。店内を見まわすと壁にかけた額には新聞の切り抜きがいくつもあった。穴だらけの工事現場のよう所で数人が並んでいる写真に「五万年前の前期旧石器遺跡発見」と大きな見出しが出ていた。
 ガラガラと入口の戸が開くと「ただいま」と勢いよく男の子夏島陽一が入ってきた。
「兵隊さんだ」と言人を見ると物怖じせずに声をかけてきた。言人はふざけて敬礼した。
 その後ろで母親の桂子が「いらっしゃい」と言人に頭を下げて愛想笑いをしていた。
 陽一はランドセルから新聞紙の包みを取り出すと大将に自慢げに中身を見せていた。
「縄文土器だね」と大将は父親らしい笑顔見せ、陽一の頭を撫でた。
「先生に見せたら、すごいって褒められたんだよ、お父さんもすごいけど、陽一も見込みがあるって、皆んなの前で褒められたよ」と陽一は嬉しくて堪らないらしい。
 桂子が陽一を促して、店舗兼住居になっているらしく、暖簾のかかった奥の階段から二階に上がっていった。
  ジョッキーが空になり、言人はお代わりを頼むついでに
「チャーハンかカレーない?」
「さっきも言ったようにここ居酒屋ね、あるわけない、適当なものでいいだろう?」子供に見せていた笑顔が消え、元の仏頂面に戻っていた。
「大将、有名人なの?」
「ただの居酒屋のオヤジに決まっているだろう」
「新聞記事の写真に大将が写っているよね」
「ああ写っているには写っているけど、おまけみたいなもんだ、主役はR大学の先生方だ」大将は不機嫌そうに応え、調理場に入ると業務用冷蔵庫を覗き込んだ。
また戸口が開くと口髭を生やした四十歳くらいの男と若い男女の連れが入ってきた。若い男は背が低く陰気臭そうだった。反対に女は身長が一七〇㌢もありそうでモデルと言ってもいいくらいに華やかさがあった。三人組は勝手を知った常連客らしくサッサと座敷に上がり込んだ。
 大将は調理場から出てくると注文も聞かずにビールをジョッキーに注いだ。
「ニーチェ先生、いらっしゃい」と口髭の男勝坂豊に大将はジョッキーを運んだ。言人に接する時と全く違い頭をペコペコ下げた。
 大将は再び調理場に入るとテキパキっと動いた。やっとスイッチが入ったように素早い動きで料理に取りかかった。座敷の三人組は話の中身は分からないものの、若い男女は口髭のニーチェ先生に適度な控えめさで接しているようだった。
 言人はチラチラ入口に気を配っていたものの、次の客はなかなか現れなかった。
 大将はお任せ料理を座敷に運んだ。三人組はコピー用紙の資料で何か打ち合わせをしているようだった。
「大将、オレのエサは?」と声をかけたものの、無視されてしまった。大将が再び料理を運ぶとニーチェ先生から大将も資料を手渡されていた。
「今年の旧石器研究会の発掘の計画です。夏島さん、また大発見お願いしますよ。夏島さんがいなけりゃ私たちだけでは前期旧石器遺跡は発見できませんからね」
 若い男女も頭を下げていた。大将は戸惑ったように笑った。
 言人はツカツカっと座敷に歩み寄るとニーチェ先生の隣りに上がり込んだ。
「髭の隊長、少し詰めてよ」と言人が厚かましく催促した。皆んな、咄嗟のことでなんと反応していいのか分からずキョトンとしていた。
 若い男黒浜次郎が「オイ!お前、失礼だろう」と声を荒げた。
 言人は割箸を取り、目の前の料理を皿に取りガッツいて口に押し込んだ。
「どこの難民だ?」と次郎が問いかけるので言人は答えようとしてむせ込む。
 見かねたニーチェ先生が落ち着いて答えろよと笑っている。
「あんた勝坂さんだろう?、オレ、あんたの生徒さん、よろしく頼むよ」言人はニーチェ先生のビールを取り上げ喉に流し込む。どこまでも図々しい。モデルさんのような女学生称名寺葉子が得体の知れない言人に動じることもなくピントが少しずれたように微笑んでいる。
「きみ、初めて見る顔だよね、歳は食っているようだけど」
「今年の四月に入学したピカピカの安行言人て言うんだ、よろしく」
「オイオイ、何浪してるんだ?」と次郎が探りを入れた。
「今年で二十一歳、オレなんかが受かる大学、偏差値最低のR大学しかないからね」
「次郎君とヒミコさんと同い年かな、学年は違うけど」とニーチェ先生が次郎とヒミコに確認した。
 確かにR大学は地方の私立大学で人気はなかった。指定校推薦枠で生徒数を確保しているのやっとだった。出来のいい学生が集まるわけがなかった。そんな中で一つだけ人気の学部があった。ニーチェ先生と鬼高教授が教鞭をとる人文学部考古学科が花形の学部だった。
 ここ数年は前期旧石器の相次ぐ発見でマスコミを賑わせ、学力からして他の有名大学に通ってもおかしくない生徒が入学してきた。そんなわけだから考古学科の生徒の学力は両極端だった。志を持ってくる意識高い系の学生と、考古学に全く興味がなく漠然と入学してくる学生たちである。
「もしかしてニーチェ先生をご存じないのかしら?ニーチェ先生に教わりたくて受験してくる方多いですのよ」とヒミコがにこやかにしゃべる。
「知らないよ知らないから、会があると大学の掲示板で見つけて、一応挨拶しておこうと、ここで待ち伏せしてた」
「考古学に興味は?」と心配そうにニーチェ先生が尋ねた。
「遮光器土偶も知らないようですよ」と大将が横から口を挟んだ。
「ヒミコは?ヒミコくらいは知っているよね?」と試験官のように次郎が尋ねる。
「ヒミコ?知っているよ、目の前にいるお嬢さんだろう」と言人が自慢気に答える。
「目の前いるヒミコさんはニックネーム、本当の名前は称名寺葉子さん。邪馬台国のヒミコ、小学生でも知っている」と次郎が言い終えると同時にもう一人の客が現れた。
「遅くなりました」と神経質そうな三十代の男茅山透がニーチェ先生に挨拶をした。周りも会釈を返した。
 言人のことは放置して、会の続きを始めた。
「先週見つけた切り通しで二十万年前の火山灰がやっぱり見つかりましたね」と茅山が報告した。
「試掘調査してみたらいかがでしょうか」と茅山は写真を取り出し、二十万年前の地層を指差して説明した。次郎もヒミコも興味津々で写真を覗き込んだ。大将は口を挟まずじっと茅山の示す地層を頭に叩き込むように睨んでいた。大将はじっと見る言人と目が合うとそっぽを向いた。会の内容に関心のない言人はひたすら食うことに専念した。

続く