松浦佐用彦、あまりにも短い生涯


※松浦佐用彦 出典 東京大学蔵

松浦佐用彦、大森貝塚のモースの弟子


「忠実な学徒にして誠実な友、自然を愛した人。〝物質界でも精神界でも最後に判定を下すのは権威ではなく、観察と実験である〟との信念を抱いていた人、それが松浦君であった エドワード.S. モース」

 激動の明治時代、土佐は多くの新進の人物を輩出している。
 牧野富太郎、中浜万次郎は全国的な著名人である。しかし松浦佐用彦を果たして知っている人はいるのだろうか。

 江戸時代安政三年(一八五六)に大豊町黒石で生まれ、明治十一年(一八七八)七月五日に東京で亡くなっている。弱冠二三歳だった。

 最初に掲げた引用文は佐用彦の墓碑に刻まれた追悼文である。その英文を捧げたのはエドワード.S. モース(一八三八–一九二五)であった。
 米国人モースは明治時代の東京大学理学部動物学の教授であった。
 明治十年六月十八日にモースは貝の研究のために来日、翌十九日横浜から新橋に向かう汽車の窓から大森貝塚を発見する。 このエピソードは考古学では有名な話しで、日本の考古学の曙となる。

 佐用彦がどのような経緯で上京し、東京大学の前身である東京開成学校に進学したかの事情は不明である。大豊町黒石の郷士の子であったらしいことまでは分かっている。幼少の頃、少年の頃、どのように過ごし、大豊から上京したのかは謎である。

 明治六年(一八七三)、東京外国語学校に入学、翌年に開成学校に進学、明治十年四月十一日に東京大学が設立され、佐用彦は福井県出身の佐々木忠次郎等と共に理学部に進学したらしい。

 モースも来日してすぐに外国人教師として明治十年七月に東京大学に雇われている。
 モースが動物学を、植物学を静岡県出身の矢田部良吉(一八五一–一八九九)が担当することになる。
 八月には江ノ島で臨海実験所を開設し、後の植物学教授となる生徒の松村任三と共に貝等の標本採集を始める。その時期に佐用彦は江ノ島にモースを訪ねている。

「今日松浦という、はきはきした立派な男が、大学の特別学生として私に逢いに来た」(『日本その日その日』一巻二〇九頁、以下引用文献は同じ)

 佐用彦はおそらく大学の方からモースの手助けを命じられ、江ノ島を訪れたものと考えられる。特別学生と言うのはおそらく今で言うゼミナールの学生と同様のものと考えられる。

 佐用彦が何故動物学コースを選択したのかは不明である。明治十年六月二六日にモースが東京大学に就任する前に、英語で講演を行っており、その際に聴講した生徒達の中には動物学に興味を持ち、動物学を専攻する生徒が数人いた。
 佐用彦もその一人だった可能性がある。それとも幼少の頃から動物、自然に佐用彦は興味を持っていたのであろうか。

 同年九月、佐用彦は佐々木と共に動物学生物学科に進学し、モースの弟子となる。同月十二日モースの大学での講義が始まり、同月十六日、モースは佐用彦と佐々木を伴い、大森貝塚の発掘の下見に初めて出かける。
 記念すべき特別な日となっている。  近代考古学の初めての発掘調査を佐用彦は手がけた一人となる。その数日後十月九日、矢田部も同行し、本格的な調査を行っている。モースは大森貝塚の成果を科学雑誌『ネイチャー』に投稿している。

 当時、歴史は神話から始まると考えられた。  モース達が発掘した遺物は江戸時代のものではなく、土器には縄目が付いていた。モースは「cord marked pottery」と呼び、後に縄文土器と訳された。
 縄文土器を使用した時代を縄文時代と日本の先史時代を指す言葉の元になった。モースは日本に最初にダーウィンの進化論を紹介した人物でもある。

 佐用彦の墓碑の「物質界でも精神界でも最後に判定を下すのは権威ではなく、観察と実験である」と言う引用文も進化論者のダーウィンの番犬と自ら称したハックスレーの言葉でもある。
 欧米でもまだ進化論がすんなり受け入れられたわけではなかった。モースは当時の最先端の知識と科学的論理思考を持ち合わせていた人物であった。そうしたモースと佐用彦は邂逅した。

 明治十年十一月五日、モースは一旦米国に帰国している。モースの不在の間、 大森貝塚の発掘を任され、十一月十九日から佐用彦と佐々木は十二日間の調査を行っている。

「余ノ帰国不在中、大井村介墟ヨり獲タル蒐集品ニ就テハ、松浦及佐々木二生カ盡ク験察ヲ加ヘタルヲ以テ大ニ其声価ヲ増セリ–中略–松浦及佐々木ノ二生カ黽勉其探求ニ従事シタルハ、亦実ニ賞スルニ足レリ」(東京大学法理文学部第六報)

 モースは二人を賞賛している。
 また明治天皇の大森貝塚発掘品の高覧があり、その際には佐用彦が出土品の整理、目録を作成している。

 モースは佐用彦の寄宿舎を訪れ、佐用彦の学生生活の一端を書き記している(二巻七六頁)。
 多くの学生が苦学し、勉学に勤しんでいた。  東京大学は欧米から多くの教授を招聘し、学生達は大学に上がる前に既に外国語を習得し、講義は外国語で最先端を直接学んだらしい。
 外国語習得に中浜万次郎(一八二七–一八九八)が東京開成学校の英語教師(明治二年一八六九)として着任している。矢田部も教え子であった。佐用彦は明治七年には東京外国語学、同年秋には東京開成学校に在籍しており、万次郎の教え子であった可能性がある。

 牧野富太郎も東京大学の植物学教室に出入りしていたのはよく知られている。富太郎は文久二年(一八六二)生まれで、佐用彦より六歳下であった。
 在野研究者の富太郎が植物学教室に出入りし始めたのは明治十七年(一八八四)であった。佐用彦が亡くなって既に七年が過ぎていた。
 植物学教室の教授と富太郎の間に起きた有名な確執問題のあった人物が先の矢田部亮吉であった。植物学教室から矢田部に追放された富太郎を再び呼び戻したのは矢田部の後任の松村任三であった。
 松村は富太郎にかつての学友だった佐用彦の面影を重ねたのかもしれない。

 モースは妻子と共に明治十一年四月に再来日する。
 佐用彦はチフスに罹っており、モースはたびたび病院に見舞っている。
 佐用彦はモースに学校の研究のことを病床に伏しても尋ねている。大森貝塚のことが気にかかっていたのであろう。

 同年七月五日没。東京大学に進学して僅か一年有余であった。
 百人程の学友達が葬儀に参列し、別れを惜しんだ(二巻一二〇頁)。
 日本で初めての考古学報告書大森貝塚『Shell Mounds of Omori』(明治十二年一八七九)の刊行を見ることもなかった。

 モースは明治十六年(一八八三)二月に離日する。  離日前の一月二九日、モースは愛弟子の墓所を訪れ哀別する(三巻二〇九頁)。
モースは自分と学友達の捧げた碑文の言葉を感慨深気に見たに違いない。

「若くして学校に入り生物学の研究に身をゆだねた。精励して大きに進むところがあった。彼の性質は明敏で人を差別をつけず交わったので、すべての者から敬慕された」

 東京大学の多くの同級生達が後々、各分野で活躍し、大きな業績を残した。しかし秀才と言われた佐用彦は惜しまれながら夭折してしまった。

 昭和二年(一九二七)三月二十日、学友だった佐々木忠次郎達は上野の精養軒で佐用彦の五十回追悼会を開き、多くの学友が集まったとのことである。
 同じ年、富太郎は理学博士の学位を授与している。  富太郎は赤貧に身を置きながらも植物学者として、天寿を全うした。片や佐用彦は嘱望されながらも動物学、考古学の道は志半ばで閉ざされた。
 奇しくも二人の墓所は東京の谷中にある。富太郎は分骨され、佐川に帰っている。

 佐用彦は死後郷里との連絡が取れず、学友達によって埋葬された。佐用彦は郷里に分骨されることもなく、谷中の墓所の七、八フィート下で眠っている。

「宿望未遂 凋落如花 吁嗟天道 是耶非耶 (抱いていた望は叶わず 君は花のように倒れた ああ天地自然よ これは正しいのか、これは誤っているのか)」(佐用彦の碑文より)

<主要参考文献>
E・S・モース『日本その日その日』石川欣一訳 東洋文庫 平凡社 一九七〇 日本その日その日 (1) (東洋文庫 (171))
磯野直秀『モースその日その日』有隣堂 一九八七 モースその日その日―ある御雇教師と近代日本
椎名仙卓『モースの発掘』恒和選書十一 恒和出版 一九八八 モースの発掘―日本に魅せられたナチュラリスト (恒和選書)


・追記 2013.4.29に松浦佐用彦の生誕地高知県長岡郡大豊町黒石に於いて、地元の郷土史研究会大豊史談会が石碑を建立した。大豊史談会の最後の事業として、佐用彦記念碑の設立を行っている。史談会の高齢化が進み、後継者が育たないのはどこの地区でも同じ事情と思われる。
黒石には今、松浦姓は2軒のみとなっている。佐用彦は夭折しているため直系の子孫はおらず、傍系の家系が受け継ぐ形になっている。