今日の映画

漫画家と作品、読んでおきたい漫画

<読んでおきたいエポックになった漫画家と作品を年代順に並べてみました。

漫画市場の移り変わり


手塚治虫の活躍した昭和20年代から大友克洋が現れる昭和50年代の漫画の移り変わりの中で重要な作品、作家を追いかけてみました。今のように数千万部売れる時期ではなく、昭和のいろいろな漫画ジャンルに影響を与えたであろうと思われる作品群をあげてみました。あくまで個人の好み、主観ですので。

少年マガジン、サンデー、マーガレットなどの一般的な商業漫画雑誌が販売されるまでは、貸本屋で単行本が貸し出され、漫画家さんの活躍の場となっていたようです。今のTSUTAYAのような役目を貸本屋さんが細々と担っていたようです。

大手出版会社の少年漫画誌が販売され始め、ジャンプが膨大な販売部数を獲得し始めます。購買読者層は小学生から高校生くらいで、成人済みをターゲットにした漫画誌も発行され、漫画家さんの商業誌の紙面に活躍の場が移行します。テレビの普及に伴い映画が衰退し、それと共にクリエーターのホームが、テレビ、漫画へと移行し、1975年のコミケが拍車をかけ、コミック市場の拡大化が進んでいきます。

一昔前なら映像作家、小説家を志す者が大挙して、コミックマーケットに参入し、おたく文化が拡大化し、アニメ化、ロリコンが顕著になります。当たれば数千万部の発行部数となった市場に、若者の創作の場は映画でもなく、小説でもなく、創作の場はコミックに流れていきます。映画、小説で日の目を見ないよりは、そちらの方を狙うのは世の趨勢。日本の文化と世界的にもてはやされ、日本が世界に誇れるのはもうアニメしかなのかとまでなる以前の状況を見てみたいです。

そんな今の状況の中、昭和に細々とマイナーだが、良質な作品群を発表し続けていた作家さんたちがいました。

キラキラお目目の少女漫画、劇画から離れ、発表の場となっていたのは手塚治虫のCOMの後、白土三平の忍者武芸帳の発表の場の目的で創刊された青林堂の月刊誌「ガロ」でした。大手出版会社とは違い弱小出版会社が、才能ある作家さんたちに発表の場を提供し、漫画の可能性を追究する場となっていました。ガロを発表の場とする作家さんたちは「ガロ系」と呼ばれるムーブメントになっていました。そこから商業誌へ転出する方、他のジャンルで活躍する多くの才能を輩出していました。今の青林堂には見る影もありませんがね。

それ以外にも商業誌でも画期となった作品を取り上げてみました。多くの作品が商業的には成功を収めたものではありませんが、多くの作家さんたちに影響を与えた作品群だと思われるものです。年代順に10作を並べてみました。作家さんの後ろの( )内は作家さんの生まれた年、作品は発表年です。

エポックになった作家、作品


日本の打表的な漫画家と言えば手塚治虫(1928)、もうこの人しかいないでしょう。映画の巨匠の黒澤明的な漫画界における第一人者。「どんなに強烈な、どぎつい問題を漫画で訴えてもいいのだが、基本的人権だけは、断じて茶化してはならない」。これは手塚治虫の言葉。これの掟破りを行ったのが、伊藤詩織さんにセカンドレイプを行った漫画家がいたよね。手塚治虫の作品は膨大な中で一作品あげるとすれば「火の鳥」。

白土三平(1932)はガロで活躍した作家。忍者ものを多く手がけ、サスケ(1961)は忍者の代名詞となっています。またカムイ伝(1964)も多くのファンを獲得していました。
永島慎二(1937)は青春ものが多く手がけた。1960年代の若者の風俗を。東京の阿佐ヶ谷を拠点にしていたのは有名。
つげ義春(1937)と言えばねじ式(1968)。「メメクラゲ」に刺されたシーンは秀逸。ストーリ性はほとんどない。それもそのはず見た夢を描き、一部のマニアからは絶賛された。「メメクラゲ」は校正ミスで、もともとクラゲの名前が決まっておらず、後で名前をつける為「✖️✖️」としてあった。それが「メメ」で校正が上がってきて、それがいいとなったエピソードはマニアックな話。

「あしたのジョー」(1968)はマガジンに連載されたボクシングの話。孤児の風来坊矢吹丈がこれまたロクでもないトレーナーに見出され、ボクシングを始める話。少年院に収監されたジョーに丹下トレーナーはハガキを送り続ける、あしたの為の左ジャブ。少年院の中でも喧嘩に明け暮れていたジョーがひ弱な相手に打ち負かされる。ボクシングを教えを学んでいた少年だった。ジョーはあしたの為のハガキを読み興味を持ち始めるのがボクシングへの一歩だった。そして次々と現れる強敵たち。ライバル力石徹の死は漫画読者から葬儀が行われるなど熱狂的人気を博した。漫画家と原作者のマッチングが成功した初めての例では。

蛭子能収(1947)もガロ系。ヘタウマ漫画と呼ばれた。わざっと下手に描いているのか、もともと絵が下手なのか、下手な絵でも独特なタッチと味がある作風。例えば、あるサラリーマンの悩みはなんと、娘のお尻が二つあると、現実にはありえないようなバカバカしい悩みの話、不条理を描いていた。

キラキラお目目で瞳の中におきまりの星が光っている少女漫画の中で、異彩を放っていたのは萩尾望都(1949)と竹宮惠子(1950)。作風はSFと心理描写だった。男子から少女漫画は敬遠されていたものの、二人の作品は男子にも受け入れられた。スポ根ものが全盛期の中で男子が読める少女漫画系は二人の作品に限られていたのかもしれない。竹宮惠子は後に京都精華大学の学長も勤めていた。「地球へ」(テラへ)(1977)は長編で地球外の惑星で人類は移住し、ミュータントして生きているが、人類が生まれた地球へ回帰願望の物語。萩尾望都の「11人いる」(1975)もSF、短編ながらエポックとなった作品。萩尾望都と竹宮惠子は作風が似ており、絵柄も少女漫画のジャンルとして似通っている。それもそのはずで二人は友人でまたライバルでもあった。共同生活もしており、二人ともに良質の作品を世に出し、一世を風靡した。

やまだ紫(1948)は少女漫画の分野に含まれず、女性向け漫画と言っていいかもしれない。日常的な生活の中に女性の微妙な心理を取り込んで根強いファンを獲得した。近藤ようこ、杉浦日向子と共に一つのジャンルを形成していた。

大友克洋(1954)は「AKIRA」(1983)で一般的には有名だが、初期作品は劇画と呼ばれるジャンルと訣別した作品が重要でしょう。今までの商業誌での誇張、暴力、エログロ、美少女漫画からは逸脱したタッチの描画とストーリーはリアリティーある世界観を作り出した。

以上の作品は独断と偏見で選んだものです。他にも好きな多くの作家さん、例えば諸星大二郎等々いますが、エポックとしての作品群はここに上げた作品がお薦めです。今では楽天Kobo 楽天市場で読めるものもあると思いますので、一度は目を通してみると、こんな作品群もあったのかと発見があると思います。

下は取り上げた作家さんの一覧です。今ではもう復刻版でしか手に入らないものがほとんどです。

手塚治虫(1928)


白土三平(1932)



永島慎二(1937)
 





つげ義春(1937)


ちばてつや・梶原一騎(原作)


蛭子能収(1947 )



萩尾望都(1949)




竹宮惠子(1950


大友克洋(1954






やまだ紫(1948)