青の欠片 1

 <親に捨てられた子供達は廃墟の中で自分たちの力で生きてきた。文明が一度崩壊し、縄文時代、弥生時代のような先祖帰りした社会の中で子供達は自分たちで学び困難に立ち向かった。 考古学を題材にした子供達のサバイバル物語>

1 海辺の狩人

朝早く起きると、リク達は釣りの準備をした。
 ウサギは意気揚々と皆を先導した。黒イヌがどこからか現れ、道草を食いながら、リク達の後をのんびりついてきた。
 ウサギがミユとヘソに釣りの仕方を自慢げに講釈した。カニがウサギの長い前置きにうんざりしながら、小さな巻貝をえさにして、さっさと一番乗りで釣りはじめた。
 カニの竿にはすぐあたりがあり、自慢気に釣り上げたが、竿の先にはフグが腹をふくらませてもだえていた。カニは腹を立て、岩に叩きつけた。
 はじめてのミユとヘソは最初はとまどいながらも、だんだん慣れ、魚を釣り上げた。カニが悔しそうに二人をにらんでいた。
 カニはフグが釣れるたびに岩に叩きつけ、殺した。ウサギは嫌な顔をして、
「かわいそうだよ、逃がしてあげれば」
「こいつらまた食いつくから、殺さないといけないんだ!」
 フグはつかまれると腹をふくらませて抵抗した。
「ヘソの腹そっくりだな」とカニはうすら笑いを浮かべながらフグを岩に叩きつけた。ふくらんだ腹を足で踏みつけると、腹が破裂し、はらわたが飛び出た。
 一番幼いヘソは顔をしかめた。ヘソの腹は異常に膨らんでいた。腹以外はやせ細っていた。
 黒イヌが近くの岩場まで追いかけてきて、おとなしくすわっていた。いつの間にか忍び寄り、死んでいるフグをかすめ取ろうとした。気づいたウサギがあわてて追っ払った。黒イヌはしっぽを巻き、いったん退散したものの、また隙あらばフグをくわえようとした。ウサギはまた追っ払った。
「だめだよ!フグは食べれないんだから」
 ウサギが人を諭すように、話しかけても、イヌにはわかるはずもなかった。仕方なくカニが叩き殺したフグを海に投げ捨てた。
 あばら骨の浮き出たイヌは、うらめしげな目でウサギを見ていた。カニが石でイヌを追っ払った。イヌは大あわてで岩場から逃げ去った。リク達のほうを未練気に振り返りながら、どこかへ姿を消した。
 しばらく釣りに熱中した。日は頭上近くまでのぼり、沖合には昔のコンクリートの巨大な箱が波に洗われていた。
 リクが 「あれはなんだろう?」と誰に尋ねるともなく呟くと、隣のウサギが昔の学校だろうと教えてくれた。
 ウサギは昔の図書館に住んでいたことがあり、物知りだった。字が読めるわけではなかったが、写真、絵だけでも昔のことを知ることができたらしい。
 ウサギの話によると、人はケモノのように昔は生きていなかったらしい。
 身のまわりは色々便利なもので囲まれ、社会は進んでいた。幼い子供達が放り出されることもなく、大人社会に守られていた。小さな子供達は皆が学校と言うものに通い、大人になり巣立つまで、多くの知識を教え込まれた。
 両脇からせり出した岬に囲まれ、入江になっていた。海の中に巨大なコンクリートの箱は顔をのぞかせていた。岬のつけ根から、アスファルトの道が箱のほうにのび、海に没していた。そこも昔の人間が生活をしていた場所だった。海の中で、人が暮らせるわけもなく、コンクリートの箱のあったあたりも、昔は陸地だったところだ。それがリク達の時代には、陸地が海に飲み込まれていた。昔の残骸が海に浮かび出ていた。
 リクは物心がつくと、自分と同じような子供達数人と行動を共にしていた。森、川べり、海沿いで何日か過ごすと、また小さな群れは移動して行った。それがどこに向かうのか、誰も知らなかった。
 群れは離散集合し、同じ顔ぶれが長く続くことはなかった。群れはふくらんだり、しぼんだりして、ゴミのようにただよった。
 気がつけばリクも子供達の群れに混じっていた。自分の力で木の実を拾い、腹にたっぷり脂肪を蓄えた昆虫をとらえ、トカゲを叩き殺し、口にした。ジッと空腹を我慢して待っていても、誰も食い物は運んでくれるわけではなかった。自らの力で生きるしかなかった。
 小さな虫一匹でちょっとした争いがおきることもあった。ひどい争いがおきると、群れがなくなり、一人取り残される怖れがあった。一人取り残され、夜になると闇におびえた。なんとか群れが消えてなくならないように、つかず離れずの状態を保っていた。お互いに目のとどくところに、人の気配を感じていたかった。
 皆で力を合わせることができなかった。リーダー格になるものもいなかった。同じ群れが長く続いても、せいぜい三、四ヶ月だった。それ以上になると獲物も少なくなり、別の場所に移動した。力を合わせる前に、群れは散れ散れになった。新たな生きる場所を求めてさまよった。
 冬になると群れはあちこちに散らばり、単独行動をとるものが多かった。それでも夜になると、廃墟のコンクリートの箱に、夜の寒さをやり過ごすため、一人二人と集まってきた。奪いあうものがなく、皆じっとうずくまって朝の日ざしを待った。
 冬を乗り越えることはきびしかった。
 雪が降ると虫、トカゲ、カエルは地下にもぐり込んだ。雪の上に点々と残る動物の足跡を追いかけても、鉄砲も弓矢も持たない小さな子供では、捕まえることはできなかった。木の皮をはぎ、冬芽を口にした。
 冬眠する動物のように、秋のうちに川をさかのぼってきた魚をたらふく食い、冬をやり過ごすだけの栄養を体に蓄えたものだけが生き残れた。
 あまりにも幼い子供は、誰かに食べものを分けてもらわないと、春先まで生きのびるのは難しかった。
 リクも小さいころは、自分より大きな子供の後についてさまよった。
 ものを分け与えることはなかった。しかし食べ残しを漁るのは、誰もとがめなかった。残りものを漁っている小さな子供を追っ払うことまではしなかった。まだまだ食べれる魚を、少し心優しい子供はわざっと捨てた。それに小さな子供達は群がった。大きな子供はそれを見逃してやった。徐々に群れは、大きな子供を中心にさまよった。
 リクも幼い頃から一人で生きてきた。猿でさえ群れを作り、母親の胸に抱かれ、群れの中で大事に育てられていた。ここの子供達は親に捨てられ、自分の力で生きてきた。
 リクにも母親に抱かれていた記憶があった。本来だったら誰かに頼り、まだまだ甘えたい年頃だ。まだまだ年端のいかない子供だ。誰かにかまってもらいたい、甘えたい。
 ここなら食い物は簡単に手に入った。海も山も川もある。食料は豊富だ。小さな子供でも、自分の力でなんとか食い物を手に入れることができる。しばらくはここで生きていける。
 群れに大人が混じることがあった。しかし大人が混じると、群れから一人二人と子供達はいつしか抜けていった。
 幼い子供は大人におびえ、獲物を横取りされ、うらめしげに見上げた。大人はうすら笑いを浮かべ、情けようしゃなく、小さな苦い木の実まで取り上げた。泣いて訴えても、とりあってくれなかった。泣いてみたところで、大人は素知らぬ顔をしていた。
 子供達は自分の獲物を取り上げられないように、こっそり行動した。一人で隠れて獲物を探し、食い物を見つけると素早く口に放り込んだ。リスのように、食い物を蓄えることはしなかった。たとえ蓄えたとして、見つかれば取り上げられ、哀しい思いをした。
 今朝、鳥の声と波の音でリクは目ざめた。いつものくせで、警戒してぐっすりと眠ることはできなかった。何時間かすると目がさめ、あたりに変わったことがないか何度も確かめた。まわりの子供達の夢にうなされる声が何度も聞こえた。浅い眠りをくり返していると、なにか匂ってくるのに気づいた。その匂いは遠くからただよってきているようだった。焚火の匂いは遠くからでもわかった。人の気配に敏感になっていた。敵はケモノではなく、大人の人間だった。小さな子供では火を焚くことはできなかった。近いうちに大人と遭遇するかもしれなかった。警戒した。

 遠くのほうで黒イヌの吠え声が聞こえた。
 黒イヌが岬をまわって、リク達が見えるところまで姿を現すと、さらに激しく吠えた。なにか訴えていた。ミユは気になるのか、竿を上げ、黒イヌのいるほうに岩場を伝って行った。黒イヌはミユに激しく吠え、また来たほうに引っ返して行った。ミユは遠ざかって行く黒イヌを追って、岬をまわり、姿が見えなくなった。少ししてミユがふたたび姿を見せ、皆を呼ぶ声がした。せかすように手招きしていた。
 リクはウサギをうながし、ミユのほうへ急いだ。
「カメが来てる、早く早く、逃げちゃうよ!」
 リク達はミユについて、岬をまわった。ミユは身軽に岩場の突起、くぼみに手足をかけ、上手に岩場を乗り越えて行った。岩場が途切れると、その先には砂浜が広がっていた。
 黒イヌが波打ち際で吠えていた。ウミガメが海に帰ろうとしていた。リク達は砂浜を走った。息を切らし、黒イヌのところに着いた時には、ウミガメは波打ち際から沖に逃げて行った。黒イヌは海の中まで、後を追いかけた。ウミガメの姿を見失い、あきらめて浜に引っ返してきた。
 リク達は波打ち際にへたり込んだ。海から上がってきた黒イヌは、身ぶるいして体の滴を切っていた。
「戻ってこい!チクショウ!竜宮城に連れて行けよ!」
 夢のような国にカメが連れて行ってくれるという伝説があった。ウサギは打ち寄せる波に八つあたりして、白波を蹴っていた。
 ミユが笑っていた。気持ち良い笑い声なんか、ここ数年聞いたことがなかった。
 リクは笑い方も忘れてしまうほど、いつも腹をすかせ、さまよっていた。笑う気力はどこにもなかった。笑って気を許せる仲間もいなかった。ミユのちょっとした笑い声に気持ちが和んだ。
 ミユは両腕をいっぱい広げ、日に焼けた顔をお日様に気持ち良さそうにさらしていた。
 目を閉じて空気をいっぱい吸い込み、口も大きく開き、口の中まで日の光をあびていた。リクは不思議そうにミユを見ていた。ミユはパクッと口を閉じると、もぐもぐと口を動かし、ごくんと飲み込んだ。同じことをくり返した。
 リクはハア?と言う顔つきでミユの口元を見つめていた。
「お腹がすいたとき、お日様の光を食べるとお腹がいっぱいになったような気になるよ、リクもやってみな」
 口を大きく開き、パクッと日の光をくわえてみた。もぐもぐと光をかみ砕き飲み込んだ。二人は黙ってお日様を食べてみた。
「やっぱり腹いっぱいにならないな」とリクはぼやいた。
「木も草も日の光を食べて大きくなるんだよ、人間だって同じだと思わない?」
 ミユは笑っていた。不思議な子だとミユをまじまじと見た。手足は長く、ひょろひょろとしており、むき出しになった肩には鎖骨がくっきり浮き出ていた。額は狭く、髪は後ろでたばねていた。ほどよくバランスの良い顔つきをしていた。ミユの胸元には粗いひもでしばった石の飾りがぶら下がっていた。ゆるやかに曲がった丸みのある飾りだった。先端部は壊れてなくなっているが、頭のほうには穴が開いており、ひもを通していた。見たこともない石飾りだった。
「勾玉って言うらしいよ、青色がきれいだろう」
 確かに見たこともないきれいな色の飾りだった。
「遠くの国の石らしいよ、海の色に似ているから好き、お母さんにもらった大事な形見だよ」
「お母さん、いたんだ」
「いたよ、おまえは?」
「いたと思うよ」
 ミユがリクの顔をじっと見守っていた。

 リクのはるかかなたの記憶の片隅には、誰かに手を引かれて歩いていた。
 疲れはて、抱かれて眠りこけたこともあった。抱き上げてくれた人が誰なのか、うすぼんやりとして思い出せなかった。溶けたようにその人に胸で眠りこけた。暖かさで安心して身も心もゆだねた。きっと母親なのだろう。しかし途中から、母親の記憶は消えてなくなっていた。
 リクは母親と二人だけの世界で生きてきた。乳離れし、歩きはじめ、そして走れるまでに成長していた。傍にはリクを見守る母親の笑顔がいつもあった。
 母親について海へ川へ山へ行った。見よう見まねで母親と食料を獲った。だんだん育って行くリクを母親は頼もしげに見守った。
 少し暑くなりはじめた頃だったろうか、母親と入江で貝をとっている時、その男は突然現れた。
 身を隠す暇もなかった。母親の不安と緊張がリクにも伝わってきた。リクは母親の後ろに隠れて男の様子をうかがった。
 日に焼けた若い男だった。太い腕と腿を持っていた。母親のやらかい体つきとは違っていた。胸の筋肉にも張りがあるのが遠目にもわかった。リクは本能的に怖れた。
 男ははじめはおずおずと母親とリクに近づいてきた。男は獲った魚を母親に差し出したが、母親は断った。母親は男を毛嫌いしていたものの、男は距離を置いてついてきた。どこに行こうと後についてきた。母親の無視はしばらく続いた。
 しばらくすると、行く先々に現れる男の姿に、リクもだんだん見慣れてきた。男が近くにいることが当たり前に感じはじめていた。
 たまに見かけないと、母親もどこかにいないかと男の姿を探しているようだった。海から上がってくる男の姿を認めると、母親は男の体から目をそらし、また自分の作業に戻った。
 男は優しそうな顔つきで、何度か近づいてきた。母親は以前ほど、男を毛嫌いはしなくなっていたものの、男を近づけなかった。それでも男の距離は確実にちぢまっていた。
 男が二、三日いなくなったかと思えば、男は兎を持ち帰ってきた。男は器用に火を起こし、兎を焼いた。リクは興味深げに男を見守っていた。あたりにうまそうな匂いがただよった。口にたまる唾を飲み込んだ。
 男はこんがり焼けた兎の太腿を引きさき、リクに持ってきた。
 リクは最初とまどった。口の中に唾がどうしょうもなく、たまるのがわかった。母親の顔をうかがった。母親はそっぽを向いていた。リクの口の中に唾があふれ、よだれが口元から流れ落ちた。男はもう一度ぐいっとリクの目の前に肉を突き出した。リクはおずおずと受けとった。こんがり焼けた肉のかたまりから、肉汁がしたたり落ちていた。
 リクは生唾を飲み込んだ。母親を気にしながら、一口肉をかじりとった。母親の拾ってくる木の実、貝とはまったく違った味だった。リクはがつがつ食った。
 母親は相変わらず素知らぬ顔で、自分がとってきた木の実をかじった。男は焚火から別の肉をさくと母親にも持ってきた。男が差し出しても母親はそっぽを向いていたままだった。男は仕方なく母親の足元に肉を置いて焚火に戻った。
 リクは母親を気づかった。リクは肉を母親の口に無理矢理押しつけた。母親は最初は怒った素振りを見せていたものの、しつこく押しつけてくるリクを笑いながら、ほんの少しだけ肉をかじった。リクはなおもしつこく母親の顔に肉を押しつけ、母親の顔中が脂だらけになった。仕方なさそうに母親は笑いながら、自分で肉を手に持って食べはじめた。
 男は焚火の傍で満足そうに見守っていた。
 男は何日かおきに兎を捕ってきた。焚火を囲んで、三人は肉を食うようになっていた。母親は焚火の炎に照らしだされた男の精悍そうな顔をじっと見守るようになっていた。リクも男に対して恐怖心はなくなっていた。
 焚火の傍で、三人は一緒に寝るようになっていた。母親が男に見せる笑顔はリクに見せるものとは違っていた。リクは少し不安を抱いた。男とふざけ合っている母親の笑顔は、かつて見たこともないものだったから。
 リクは、一人除け者にされたような気分で、二人をながめた。それに気づいた男は、母親を抱き上げてふざけていたように、リクも抱き上げた。リクは男の広い背中にしがみつき、笑い転げた。それを見ている母親も満足そうにほほえんでいた。
 母親のいる前では、男はリクをかわいがった。母親がいない時も、リクの面倒を見てくれた。母親とは違った安心感と頼もしさを感じた。自分も男のような大人になりたいと、あこがれさえ抱いた。
 しかし、しばらくたってから異変が起きた。
 母親のいない時、優しかった男はリクをうとましげにあつかった。リクがふざけて男の背中にしがみつくと振り払われた。それでもリクは笑いながら、しつこく男にまとわりついた。男はイライラして、手を上げた。リクは呆然とした。
 男の豹変が信じられなかった。
 リクがむずがったり、気に食わないことがあると陰湿に蹴飛ばされたり、なぐられたりしはじめた。男をはじめて見たときの恐怖心がよみがえり、男のエスカレートする暴力におびえた。
 母親はリクの痣に気づくと怒り狂った。男は母親の怒りをしずめるために、リクにふたたび優しくしたものの、リクの恐怖心をぬぐうことができなかった。
 リクが男を避けるようになり、さらに男がイライラしていることが、手にとるようにわかった。リクは男に増々おびえた。逃げようとするリクをつかまえては、さらになぐり、蹴飛ばした。
 男がいなくなってくれることを願った。
 母親と二人だけの世界に戻りたかった。リクは母親に男が嫌だから、あの男を置いて別のところに行こうとせがんだ。母親はあいまいにうなずいた。母親はしばらく物思いに沈んだ。
 その間も母親はリクと一緒にいる時間よりも、男と過ごす時間が長くなっていた。
 リクは抱きかかえられることもなくなった。母親にしがみついていた指を、男が一本一本引きはがすように、リクから母親を取り上げていった。
 いつしか甘えて抱きつくと母親にも邪険に突き放された。母親に抱きすがろうとした手は空を切った。しがみつくものがなくなり、リクはむずかり、泣き続けた。泣き続けるリクを男はあざ笑い、いじわるくあつかった。
 リクの恐怖はだんだん日常的になり、母親はリクがひどい目にあっても、あきらめるようになった。
 泣いても母親もかまってくれなくなっていた。リクは自分の置かれている状況がすぐには飲み込めなかった。
 ある朝、起きてみるとリクは一人取り残されていた。
 恐怖におちいり、母親の姿を探し求めた。
 すぐ帰ってくるだろうと、待った。しかしいくら待っても母親はふたたび現れなかった。
 腹が減り、リクは立ち上がり、食い物を探し出しはじめた。いつしか一人で生きてきた。生きなければならなかった。本能は生きることをリクに命じた。
 しかし、今となっては本当にあった記憶なのかどうかも定かでない。一人で生きていることだけが現実だった。

リクの記憶とは裏腹に、砂浜は細かい貝殻の欠片とサンゴの粒が混じり、輝いていた。
 砂浜は広く、陸のほうは一段高くなり、堤防になっていた。くずれた堤防際には生い茂った木々が遠くの岬まで続いていた。陸と浜のせめぎ合いのところには、蔓が小さな花を咲かせていた。
 昔はこの海沿いにも村があったのだろう。今は内陸のほうにも大きな木が生いしげっているのが遠目にもわかった。


 黒イヌがリク達から離れて砂浜を上がって行った。太陽に暖められた砂浜を陸のほうに向かっていた。砂に鼻をこすりつけ、匂いをかぎながら、行きつ戻りつ陸に向かっていた。
 黒イヌのたどっている跡だけが砂がほじくり返され、波打ち際から上の方まで続いていた。ウサギは黒イヌの後を追いかけ、かけ出した。
「タマゴ!カメがタマゴを産みにきたんだ!」
 リクとミユも立ち上がり、砂浜を走った。
 ウミガメの産卵場所は、まわりがほじくり返され砂山になり、すぐにわかった。
 皆で汗だくになり、砂をかき上げた。かき上げた砂は蟻地獄のようにくずれ落ちた。
 リクが棒切れを拾ってきて、あたりに突き刺しはじめた。何度目かに棒切れはストンと奥まで突き刺さった。棒を引き抜くと、先にはヌメっとしたタマゴの黄身と砂がからみついていた。
 皆いっせいに頭を突き合わせて掘りはじめた。三十センチも砂をかき上げ掘り進むと、目玉のような真っ白な卵が顔を出した。
「やった!竜宮城の乙姫さまからの贈り物だ」ウサギが興奮していた。リクとウサギが次々と掘り出して行く。黒犬も穴に頭を突っ込んできて足で掘りはじめた。ウサギが邪魔くさそうに黒犬を押しやった。掘り出した卵をミユが受けとった。ミユはシャツの裾を上げ、裾をかご代わりにして卵を入れた。シャツの下から腹が出ていた。リクは卵に夢中になっていたものの、目の前にミユのふっくらした腹が見えていた。
 ミユはあわてて裾を引き下ろした。やわらかい殻の卵はシャツからボタボタッと穴に転がり落ちた。
「なにやってんだよ」とウサギはぶつくさ文句を言った。
 文句を言いながらもリクとウサギはまた卵を拾い上げ、ミユに渡した。受けとったミユはウサギをつかまえ、ウサギに卵を押しつけた。
「おまえが持てよ」と有無を言わさず、ウサギのシャツの裾に卵を包ませた。
 遠くからカニの大きな呼び声が聞こえた。カニが岩場で大きく手招きをしていた。あわてぶりは普通じゃない。
「どうしたんだろう?」
 リクはかけ出した。ミユはリクの後を追いかけた。ウサギも卵をこぼしては拾い上げながら、遅れてついてきた。黒イヌが落ちた卵をくわえていた。
 岬をまわり込み、もとの釣り場が見えたとき、大人の男が海に飛び込むところだった。海にヘソが落ちておぼれかけているらしい。おぼれかけたヘソのほうに泳いで行く男の姿が見えた。岩場に女の姿もあった。

 男と女も天満宮にやってきた。男はこの場所が気に入ったように、まわりを見まわした。一緒の女はお腹が大きく、大儀そうに境内に腰を下ろしていた。
 ヘソは海水を飲み、ぐったりとして、まだむせ込んでいた。
 リク達はとまどいを隠せなかった。特にウサギは疑り深い目で男の様子をうかがっていた。リクの傍を片時も離れなかった。
「オレたちもここでしばらくやっかいになるか」一番年上のリクに話しかけてきた。男は笑みを浮かべていた。その笑みに威圧感を感じた。
 リクはウサギをそれとなく振り返ると、やはりウサギの顔も引きつっていた。ミユ、カニも諸手で歓迎している感じではなかった。少し様子をみるしかない。それでだめならここを離れるしかないだろう。悔しいが仕方がないのかもしれない。
 子供達同士で少し親しくなったとしても、まだ大人を追い出すだけの団結力があるわけではなかった。
 男は返事をしないリクをじっとうかがっていた。男はミユに目を移し、ミユの胸のあたりをじっと見た。
「もしかして、おまえ…」と言いかけたが、女の呼ぶ声で途中で止めた。 
「ゴリ、腰をさすってくれないか」
 ゴリと呼ばれた男は嬉しそうに、妊娠で腰に負担のかかった女の腰をさすりはじめた。
「そこじゃないよ!」
 女はゴリの手を腹立たし気に叩いた。ゴリはそれでも嬉し気に女の腰のあたりをもんでいた。
 リク達は二人を脇に見ながら、釣ってきた魚を生のままで食べはじめた。
 ゴリはリク達をちらちらうかがっていた。ゴリは境内に落ちた枯枝と苔を探してきた。木の上に両手で挟んだ枝をきりもみして、数分もしないうちに木の下に置いた苔から煙が出はじめた。くすぶっている苔に息を吹きかけると煙が立ち上り、パッと火が燃え上がった。リク達は驚いてゴリを見守っていた。
「おまえら、魚を持ってこい」
 リクはおずおずとまだ食べていない魚をゴリのところに持って行った。ゴリは魚の口から細い枝を刺し、火のまわりに逆さに突き刺し、魚をあぶった。
 魚の焼ける匂いに、子供達も火のまわりに集まってきた。ウサギもリクの後ろに隠れ、焼けはじめた魚をのぞき込んでいた。
 煙はもだえるように境内の空に立ち上った。空まで煙は舞い上がり、リク達を見下ろしているかのように見えた。焚火の匂いと魚の焼ける匂いが境内にただよった。リク達が怖れていた煙の匂いだった。
 魚の皮が焼けはじめ、ゼラチン状の半透明な目は焼けるに従い、白い玉のように固くなっていった。リクは食い物を焼いて食べたのは、昔、兎の肉を食べて以来だった。


 ゴリはリクに火の起こし方を教えてくれた。カニもウサギも何度も挑戦してみた。カニはなかなかうまくいかず、腹を立てながらも、あきらめず何度も試みた。最後には手の皮が破れ、血が出るまで続けた。
 結局、火起こしが上手くできたのはリク一人だけだった。リクはちょっぴり優越感にひたった。ゴリは面倒臭がらずにコツを教えてくれた。火起こしの枝はどんな木が良いのか。アジサイ、空木のような枝が中空になったものが良いとか、着火材には苔が良いとか。
 リク達は火を手に入れた。リク達が怖れていたのは火ではなく、火を焚く大人だった。
 捕まえてきたカエルも腿を引きさき、火であぶると生臭さがなくなり、トリ肉のようになった。生で食べるより、ずっとうまくなった。体調をくずしていたヘソは下痢に悩まされていたが、食べものを焼きはじめてからは徐々に快方に向かった。
 拾ってきた鉄の鍋で、海水を煮つめると塩ができた。何度も海水をつけ足し、苦い塩の粒が鍋の底にたまった。
 生魚に塩をまぶして焼くと、いくらでも食べれるような気がした。リク達は調味料を初めて知った。
 苦いドングリを灰と一緒に煮ると苦みがとれた。同じような方法でシダのワラビも食べれることを知った。
 リク達の知らない生きる術を大人の二人は知っていた。リク達は最初はおずおずとゴリとヨモギに食べもののとり方、調理の仕方を習った。
 子供達の生活にうるおいをもたらした。大人にしてみれば些細なことかもしれなかったが、リク達には驚かされることばかりだった。
 子供達は積極的にゴリとヨモギの話しを聞いた。ウサギも最初は二人におどおどしていたものの、すっかりなじみ、本来の明るさを取り戻した。ウサギが一番早く理解したものの、まだ幼すぎてできないことが多かった。カニもうまくいかないことだらけだったが、できない自分に腹を立てながらも、しつこく取り組んだ。ヘソはおろおろするばかりで、なにをやってもうまくできなかった。今まで一人で生きてこられたのが不思議なくらいの不器用さで、皆の手をわずらわせた。
 ミユが一番調理方法に興味を示した。ヨモギの傍で調理の仕方を色々教わっていた。ミユはヨモギから学ぶと、リク達に新しい料理を出した。リク達は喜んで出された料理をどん欲に食った。一度冷めた食い物も捨てずに鍋でまた温め直した。腐ることもなく、二、三日は食べることができた。こんなことはかつてなかった。
 食べれる食料が増え、腹いっぱいになると皆の顔に笑みが自然にこぼれた。いつも腹をすかし、イライラすることも減った。カニでさえウサギにもヘソにも少しは優しく接しているようだった。
 リクは色々なことを覚えなければならないと思った。火の起こし方、調理の仕方を覚えれば、もっとくらしが良くなる。せっかく獲ってきた獲物を腐らすこともない。


 自分だけではなく、小さなカニ、ウサギ達が安心して生きのびれる方法を手に入れたいと思った。
 夜になると焚火に青草を投げ入れ、蚊を追っ払うこともでき、悩まされることも少なくなった。
 闇にゆらめく炎を見ながら、ウサギは本で見た宇宙の話しを嬉しそうに皆に語った。
 ウサギの話しを聞いていると、リクには宇宙がそこにあるように思えた。炎が燃え、木の枝がはぜ、火の粉が流星のように飛び散った。闇から飛んできた羽虫が、羽をあっという間に焼かれ、身もだえた。焚火が境内の梢まで照らし出していた。皆の顔を照らし、お互いの顔を見合って笑った。体に焚火の匂いがしみついた。
 リク達は焚火を囲んで寝た。今まで焚火の匂いを恐れていたものの、逆に焚火の傍で寝るのは心地よかった。
 幼い頃に母親の傍で安心して暖かい気持ちで眠りについたことを思い出した。浅い眠りから深い眠りになった。大人とケモノにおびえていたのが、逆に大人がいると言う安心感で、以前よりぐっすり眠ることができた。

 リク達はゴリにケモノの捕り方を学んだ。山のケモノ道に、ワイヤーでワナ猟を仕かけた。ゴリはイノシシの通り道、ぬた場、糞だめを探し出し、ワナを仕かけた。
 ワイヤーはあらかじめ枝葉と一緒に煮込んで、イノシシの警戒する鉄の匂いを消した。ワイヤーで輪っかを作り、端を近くの丈夫な木にくくりつけ、イノシシが首を突っ込むとしまるように仕かけた。
 また鳥を捕るために、赤い木の実をいっぱい置き、小さな木の枝を立ててまわりを囲った。一カ所だけ開けておき、鳥が首を突っ込み、つっかい棒に触れてはずれると、横棒が鳥の首を挟む仕かけだった。首打と呼ばれる仕かけで、大きな鳥は捕れないものの、ヒヨドリ程の大きさなら大丈夫だった。
 後、ゴリはウサギとヘソにも、ミミズをえさにして釣針を杭につないでおく簡単な仕かけでツグミを捕らせた。魚以外に鳥まで釣ろうという方法だった。えさのミミズがひからびて固くならないように、ツグミの通りそうな日陰に仕かけた。ウサギとヘソには一番楽なやり方だった。ツグミがかかっているか、ウサギとヘソは連れ立って、嬉しそうに一日に何回も見まわりをした。ある時は一日に二、三羽捕れることもあった。ウサギとヘソは興奮して獲物を持ち帰ってきた。


 リクとカニのイノシシ猟はまったく成果がなかった。朝早く見まわっても、なにもかかっておらず、二人はがっかりして山から帰ってきた。仕方ないのでいつもの魚釣りに出かけた。釣りに行く時にはミユもついてきた。
 食料は色々なものが手にできるようになったものの、それでも毎日魚釣り、貝、蟹を取りに行かなければならなかった。親鳥がえさを運んできてくれるヒナ鳥のように、巣穴で口を開いて待っているわけにはいかなかった。
 生まれるとすぐ親鳥の後を懸命に追いかけ、えさ探しするキジ、ウズラのヒナのように食い物を求めてさまよった。まだ親鳥がいればえさを分けてもらえるものの、親からはぐれたリク達は自ら生きなければ、誰も食べものを運んでくれるわけもない。自分達でえさをついばまなければ、死が待っているだけだ。

 ヨモギはだんだん動けなくなっていた。お産が近づいているらしい。リク達には子供が生まれると言うことが、どんなことかわからなかった。
 ゴリは境内の片隅に丸太を集めてきて、小屋を数日がかりで造りはじめた。リク達も手伝った。柱を四本立て、屋根を立てかけた。屋根には茅を刈ってきてふいた。人が一人出入りできる大きさの入口ももうけた。太い葛を屋根の丈夫な垂木にくくりつけ、椅子の上にぶら下げた。お産の時にこの葛にしがみついて、赤ん坊を産むとのことだった。
 子供達が興味深げにのぞきに入ると、ミユ以外はヨモギに追い出された。
 つぶれかかった神社も何日もかけて手を加えた。雨をしのげるように、屋根の棟上げをし、皆の寝床を確保した。雨の日でも焚火ができるようにした。
 少しずつ蓄えた保存食をネズミに盗られないように、床を高くした小さな小屋も新たに造り上げた。床の柱にはネズミ返しの板もはめ込んだ。梯子を立てかけ登れるようにした。貯蔵小屋ができ上がると飛び上がって喜んだ。
 貯蔵小屋に塩漬けの魚、干した魚、薫製にした鳥の肉を天井からぶら下げた。皆が梯子を登ってきて、ワクワクした気分で中をのぞいた。少しずつ増えて行く食料に嬉しさがこみ上げてきた。
 リク達はイエと言うものは持たなかった。いつもさまよっていたため、岩陰か物陰で夜をやり過ごした。イエは必要としなかった。わずかばかりながらでも食い物を貯蔵し、住処ができると安心感を覚えた。
 ヨモギの小屋からミユが出てきた時、ミユは髪を三つ編みにし、赤いハイビスカスの花を髪に挿していた。外でゴリを手伝っていたリク達は顔を見合わせ驚いた。
「なんだ、おまえ、女の子みたいだぞ」とリクが呆れていた。
「気持ち悪いぞ」とカニがけなした。
 もじもじとうつむいていたミユが、キッーとカニをにらんだ。ウサギもヘソも笑っている。
「ほっといてくれ!」
 ミユはそっぽを向いた。
 小屋から顔をのぞかせたヨモギがほほえみながら、
「あんた達、ミユが女の子だと知らなかったの?バカだね」
「エーッ!」とリク達はいっせいに驚きの声を上げ、ミユをまじまじと見た。
 ミユはじっと地面に目を落としていた。言葉使いは男の子のように乱暴だったが、確かにミユは少し違っていた。赤いハイビスカスがリクの目に焼きついた。髪型もハイビスカスもミユに似合っているような気がした。
 ヨモギは小屋にこもりはじめた。ゴリも小屋から追い出され、出入りできたのはミユ一人だけだった。小屋の前に作った石囲いの炉で、ヨモギとミユは調理をしていた。ゴリとリク達に薪をいっぱい集めてきてもらった。そしてゴリがどこからか拾ってきた大鍋を石囲い炉にすえ置いた。
 ヨモギが小屋にこもりはじめて、数日たった夜、久しぶりに雨が降った。雨を避けてゴリとリク達も神社にもぐり込んで寝た。小屋からヨモギのあえぐ声が、雨音に混じり聞こえていた。ゴリは寝つかれない様子で起き出しては小屋のほうをうかがっていた。ヨモギのケモノのような声がとぎれとぎれにあたりにひびいた。
 ヨモギのうめき声は、朝方になっても聞こえていた。朝、ミユが小屋から出てくると、ゴリがおろおろと近寄り、大丈夫かとたずていた。ミユも疲れた顔でうなずいていた。
 リクとカニはイノシシ猟のワナの見まわりに山に入って行った。山の木々はまだ梢から雨滴をしたたらせ、差し込んできた日の光で森はむせ返っていた。きらめく梢から鳥が羽音を立てて飛び立った。
 リク達が朽ちかけた倒木を乗り越えて行くと、山の奥でカラスがうるさく鳴いていた。もうとっくにえさ場に向かっているはずのカラス達が、まだねぐら近くで騒いでいるらしい。木の間から見える空には鳶が数羽旋回しているのが見えた。
 カラスアゲハが黒い羽をゆらめかせ、リク達の頭の上の木々の間を通り抜けて行った。ケモノ道がカラスアゲハの通り道にもなっていた。
 ケモノ道は雨に打たれ、落ち葉の匂いでむせていた。ケモノ道には雨上がりの後のケモノの足跡がくっきりと残っていた。
 せり出してきた枝を払い、雨の滴に濡れながら進むと、糞だめに行き当たった。
 リクは匂いの立ちこめた糞だめをのぞき込んだ。古い排泄物は昨日の雨に洗われくずれていたが、新しい糞がそのまま中央に残っていた。リクとカニは顔を見合わせた。
 今朝、ここにイノシシが立ち寄っている。足跡は先へと続いており、尾根伝いにイノシシは行ったらしい。雨が降り匂いがかき消され、警戒心を解いてケモノ道に戻ってきたらしい。
 尾根はシダが生い茂っているものの、ケモノ道はシダの間に見通せた。
 昔は人間の通った山道だったらしく、今はシカ、イノシシの通り道となり、かろうじて山道だとわかる程度だった。
 遠くになにかが、うめくようななき声がかすかに聞こえた。
 二人は同時に足を止め、顔を見合わせた。まさかこの山奥までヨモギのうめき声は聞こえないだろう。木々が風に吹かれ、こすれ合う音とも違った。
 二人は小走りにシダをかき分け、息を切らして山道を登って行った。倒木までくると、なき声が近くに聞こえた。聞いたこともないなき声に足を止めた。
 倒木に近づき身を伏せ、あたりの気配をうかがった。二人の顔は、緊張して強ばった。汗が額にしたたり落ちた。
 ドサドサっと地面をかけずる音と木のしなる音がした。頭上の大木の梢に数羽のカラスが騒がしく鳴いている。ケモノのなき声とカラスの鳴き声がうるさくひびきわたった。

 リクはカニの顔をのぞいた。カニはリクに見られていることに気づき、臆病風を顔から消し去り、立ち上がった。リクは思わずカニの手首をつかんだ。カニはリクの手を振り払うと、倒木を乗り越え、なき声のほうに近づいて行った。リクもためらったものの、カニの後をすぐさま追いかけた。 
「なんだろう?」とカニに不安げに問いかけた。
 カニも首を傾げた。仕かけたワナのすぐ近くにまできていた。
 ワナのところでケモノのなき声が聞こえる。二人は慎重に物音を立てないように一歩一歩忍び寄った。二人はいったん立ち止まり、木の幹にまわり込み、息を殺してうかがった。なき声がぴたっと止んだ。
 幹の陰からのぞいてもケモノの姿は見当たらなかった。しかしあたりにケモノの強い匂いと血の匂いが鼻を突いた。静けさがしばらく続いた。頭上のカラスの鳴き声も止んでいた。森の静けさが一瞬よみがえった。木の梢から雨の滴がポタリポタリと落ち、静寂の中で大きな音となって聞こえた。二人の荒い息と心臓の鼓動が聞こえそうだった。根くらべのような静けさが続いた。
 しんぼうできずにカニは息を大きく吸うと、幹の陰から足を一歩踏み出した。
 突然、茂みから岩のような大きなケモノがカニをめがけて突進してきた。
 一瞬の隙を突き、ケモノはカニに襲いかかろうとした。カニは虚を突かれ、逃げる暇もなく尻餅をついた。
 ケモノはのしかかるようにカニに襲いかかろうとした。傍の木がしなると、ケモノはカニの目の前でピッタと止まった。足にかかったワイヤーがピンと張っていた。
 ケモノはさらに襲いかかろうとするが、足のワイヤーでカニに体当りできなかった。
 リクはあわてて、カニの腕をつかむと思いっきり引っ張り、木の幹まで引きずり戻した。ケモノは茂みにまた潜り込み、息をひそめた。
 カニは驚きのあまり目を見開いたままだった。汗まみれの額に髪の毛がべったりこびりつき、肩で息をしていた。二人はしばらく木の根元にへたり込んでしまった。
 大物のケモノをとらえたことはまったくなかった。せいぜい手の大きさの蟹とか魚、鳥が獲物だった。リクはとまどった。イノシシがせっかくワナにかかっても、どうしてよいのかわからなかった。
 棒でイノシシの鼻面をなぐって殺せとゴリは言っていた。手負いのイノシシは凶暴だから、一発で仕留めないとあぶないとも言っていた。しかしとてもリク達の手に負えそうもなかった。
「ゴリを呼びにいこう」
 カニは首を振った。よろめきながら立ち上がり、あたりから長い木の棒を探し出してきた。
「無理だって!」と止めたものの、カニはふたたび挑もうとしていた。
 リクはあきれたように、仕方なく自分も木の棒を探し出してきた。二手に分かれ、おそるおそる、ケモノのひそんでいる茂みに近づいた。
 耳をすませるとケモノの荒い息づかいが聞こえた。二人はお互いにうなずきあった。木の棒を突き出し、いつでもケモノの突進をかわせるように半身に構えた。カニが探るように、茂みを叩いてみた。茂みから威嚇するなき声がした。もう一度カニは茂みを叩くと、ケモノが飛び出してきた。カニが飛びのくと、さらにケモノはカニをめがけて襲いかかろうとした。前足に絡まったワイヤーに引き戻され、巨体がつんのめった。リクが横から頭を狙って棒を振り下ろした。確かな手応えがあった。一瞬よろめいたケモノは素早く体勢を立て直すと、今度はリクに突っ込んできた。リクは飛びのき、今度はカニが棒を振り下ろした。カニの棒がケモノの鼻面に命中した。横からリクも襲いかかり、めちゃくちゃに棒を振り回した。
 リクは恐怖にとらわれていた。棒で叩き殺す感触がおぼろげにあったような気がした。
 それがいつのことか、本当のことだったのかわからなかった。ただ恐怖がわき上がってきた。殺さなければ、自分が殺される。この恐怖がどこからわき上がってくるのか、わからなかった。
 ケモノは鼻から口から血を流し、体を引きつらせてくずれ落ちた。それでもリクもカニも恐怖で、ところかまわず棒を振り下ろした。ケモノのなき声が森にひびきわたった。上空ではカラスが騒がしく鳴いていた。ケモノは短い足を痙攣させていた。
 苦しんでいるケモノは見たこともない生き物だった。
 一見イノシシに似ているものの、イノシシより顔が短く、寸づまりだった。鼻は大きく平べったい。イノシシより毛も白く、剛毛には見えなかった。
 カニが思いっきり最後のとどめをさした。カニの棒がケモノの眉間に当たり、ぐしゃっと鈍い音を立てた。ケモノはグエッとうめき、引きつった最後の痙攣を起こした。弓なりに反った牙の生えた口から泡と血をはき出した。リクは思わず目をそむけた。カニの顔には汗とケモノの血を浴び、目は異様に輝いていた。
 リクの棒切れにも血がこびりついていた。リクはゾッとして棒切れをあわてて投げ捨てた。
 山道を担いで帰るには、ケモノは巨大すぎた。仕方なく二人は麓まで下り、ゴリに助けを求めた。
 ヨモギの出産はまだのようだった。ミユが石囲い炉の大鍋で湯を沸かす準備をしていた。ウサギとヘソも手伝っていた。ゴリは境内で石の上にすわり込み、不安そうに小屋のほうを見守っていた。小屋からヨモギのうめき声が聞こえた。
 ミユを残し、ゴリ達を連れてふたたび山に入って行った。ケモノを仕留めた場所に戻ると、いっせいに羽ばたく羽音がして、木の梢にカラスが逃げて行った。漁り屋が死をかぎつけてやってきていた。息絶えて横たわっているケモノに蠅と虻がたかりはじめていた。
 ウサギは目をそらしていた。大きなケモノの死はあまりお目にかかったことがないのだろう。リクだってそうだった。本能的に死は怖れているものの、食料を得るためには死も止む得ない。
 ゴリが驚いてケモノを見下ろしている。
「これはイノシシじゃないな、イノブタだ」
「イノブタ?」とリクが聞き返した。
 おそるおそるのぞき込んだウサギが横から口を出した。
「野生のイノシシと昔の家畜のブタの間にできたやつだよ、野生のイノシシを家畜にしたのがブタだよ、だからイノシシとブタの間には子供が生まれるんだ」
 ゴリがイノブタの足に絡まったワイヤーをほどいた。ヘソは腹を抱えて茂みに隠れて行った。カニが笑っている。なにかあるとヘソはすぐ腹が痛くなった。
「よくまアー、おまえ達、めちゃくちゃになぐり殺したもんだな」とゴリが笑っていた。
 イノブタの後足を縄でしばると、皆で力を合わせて逆さに木に吊りし上げた。イノブタはたっぷりと体に脂を蓄えていた。
 ゴリはイノブタの喉頸にナイフを入れた。切り裂くと、白い脂身の肉の下に赤みががった肉が見えた。首を伝って、まだ暖かい血が落ち葉の上にしたたり落ちた。落ち葉の上に血だまりができた。
「血抜きをしないと、肉が臭くなるからな」とゴリが教えてくれた。
 リクは血には怖れをなした。殺した時の感触が生々しく手に残っていた。
 ゴリはイノブタの片耳としっぽも切り落とした。
「先に山の神に感謝しなけりゃな」
 ウサギは目をそらしていたが、カニはじっとゴリの手元を見つめていた。
 ヘソが薮から出てくると、木にぶら下げたイノブタを残し、ゴリが先頭に立ち、山の頂上を目指した。
 リク達だけで以前踏み分け道をたどり、頂上まで登ったことがあった。ケモノ道があちらこちらに縦横にめぐっており、山道に迷いそうに何度かなった。ウサギはリク達に遅れてついてきていた。ウサギは時々立ち止まると来た道を振り返り、木の枝を折っていた。カニがイライラしながらウサギを急かした。帰り道、似たような道に迷い込みそうになると、ウサギがリクに何度か正しい帰り道を教えた。山の麓に無事着いた時、ウサギは自慢気に小鼻をふくらませ、迷い子にならない種明かしをした。ウサギは折った枝を目印にしていた。
 平坦な頂上は木々が生い茂り、木の梢から空が見える程度だった。遠くに潮騒が聞こえた。大きなドングリの木の下は日が当たらず、シダも生えていなかった。根元にはコンクリートの祠があった。中には丸い石と水のたまったガラス瓶が苔におおわれていた。丸い石は山にはない石だった。昔の人間が海から持ってきたものかもしれない。どうして石が祠に置いているのかはわからなかった。
 切り取ってきたイノブタの耳としっぽを祠にささげた。ゴリは祠に向かい、うやうやしく頭を下げた。リク達も意味もわからず、ゴリを真似て頭を下げた。カニが祠をのぞき込み、手を伸ばし丸い石を取ろうとした。
「山の神様がその石に宿るから、取ったらだめだ!」ゴリが止めた。
 カニはあわてて手を引っ込めた。
 山の神に供え物をささげ、また獲物が獲れますようにとお願いするのだと、ゴリは教えてくれた。リク達は獲物が獲れても、今までなにかに祈ったり、感謝したりしたことはなかった。
 ふたたびイノブタのところに下りてくると、やはりカラスの鳴き声が頭上に聞こえた。
 イノブタを木から下ろすと、茂みから小さなケモノが数匹がはい出てきた。カニは棒切れを拾い上げると、小さなケモノをなぐり殺そうとした。それをゴリが止めた。
「うり坊だ、子供がいたんだ」とゴリが顔を輝かした。
 小さなイノブタの背中には茶色の縦じまが走っていた。親が死んだこともわからず、我先に四匹のうり坊が乳房にしがみつこうとした。ウサギとヘソがうり坊にそっと手を出しても逃げる気配はなかった。二人が抱え上げると、短い足をばたつかせ少しあばれたものの、すぐに大人しく抱かれたまま、か細いなき声をあげた。
 リク達は天満宮にうり坊を先に運び下ろした。また山に分け入り、イノブタを丸太に縛りつけ苦労して運び下ろした。
 谷間の沢へ運び下ろすと、ゴリはイノブタの腹をナイフで切りさいた。内蔵を引き出し、皮をはいで手際良く解体した。
 切りさいた腹から、はらわたがのぞいた時、リクは思わず目をそむけた。小さな生き物のはらわたは平気で取り出すことができたものの、イノブタのはらわたはあまりにも生々しかった。ほんの少し前まで、イノブタはうり坊に乳を与えていた。しかし、今はなぐり殺され、はらわたをさらけ出していた。
 ウサギとヘソは示し合わせたように、うり坊の世話をするといって、その場を早々に離れて行った。二人は見たくないのだろう。わからないでもなかった。カニは逃げて行く二人をあざけるように見送った。
 リクだってこの場を逃げ出したかった。目をそむけたかった。自分達がイノブタの命を奪った。自分達が生きるためだと言っても、他の命を奪うのは恐ろしいことに思えた。魚とか小さな生き物だと命をあまり感じなかった。命までちっぽけに見えた。イノブタには命そのものを感じた。ずっしりと重い命を感じた。
 カニはゴリの手元をしばらくじっと見ていた。カニもリクと同じ思いにとらわれているのかもしれない。しかしカニは意を決したようにゴリを手伝いはじめた。リクも少しためらった後、おそるおそるイノブタに近づき、ゴリを手伝った。
 イノブタの肉はまだ暖かく、弾力があった。リクは心にあるわだかまりを捨て去るかのように、血まみれになりゴリを手伝った。切りさばいた肉は素早く沢の冷たい水につけ込んで冷ました。流水に血がゆらゆらとゆらめいて流れて行った。
 イノブタの形は段々なくなり、肉のかたまりとなった。リクはやっと落ち着きを取り戻した。形のあるイノブタには怖れをなしたものの、肉片は単なる食い物に過ぎなかった。これでしばらくは食い物には困らないだろう。自分達の命をつなぐ食い物になってくれる。そこにはもはやイノブタの命の欠片はなかった。
 リクが火を起こし、肉をくし刺しにして、火であぶった。肉が香ばしく焼けはじめ、肉汁がしたたり落ちた。皆、目を輝かしていた。早く食いたくて、うずうずしていた。解体の時にはおびえていたウサギとヘソも待ちきれず、リクが焼き上がった肉を分け与えると、かぶりついた。
 「うまいだろう」とカニがあいづちを求めた。皆がうなずくと、カニは自慢気に目を細めてニーッと笑った。ミユは一切れ肉を小屋に運び込んだものの、そのまま持って戻ってきた。ゴリが心配そうに小屋を見守っていた。ごちそうを目の前にしても上の空だった。
 夕闇がせまり、夜のとばりが下りはじめた。たらふく食うと、焚火を囲み、脂でギトギトになった顔を見合って笑った。
 ヘソの腹は普段よりさらにふくらみ、臍が大きく突き出ていた。カニが臍を指さし、笑い転げた。カニは焚火から火のついた枝で、ヘソの臍をふざけて突っつこうとした。ヘソは飛びのき、あわてて逃げた。カニは笑いながら追いかけた。ヘソは止めてくれと笑いながら逃げまどっていた。ウサギも火のついた枝を持つと二人の後を追いかけた。ヘソは逃げてきて薪をつかむと、逆にカニを追いかけはじめた。リクも皆の後を追いかけた。闇の境内を明かりがかけめぐった。
 木の柵の囲いから、うり坊をつかまえ、外に連れ出した。カニがうり坊の鼻面に火を近づけた。うり坊は驚いてヨタヨタと逃げはじめた。とまどいながら右往左往した。その後を皆が追いかけた。
 うり坊を追いつめ、まわりを取り囲むと火をかかげ、雄叫びをあげた。うり坊のまわりをぐるぐるかけまわった。思い思いに踊りを踊った。うり坊は逃げ場を失い、うずくまってしまった。
 カニはうり坊をつかまえ、雄叫びを上げながら境内をかけめぐった。その後をリク、ウサギ、ヘソも興奮して追いかけた。リクがカニの手からうり坊を奪いとると、逃げた。それをまた他のものが追いかけ、かわるがわるにあばれるうり坊を抱え、境内をぐるぐるかけめぐった。トランス状態になっていた。底抜けに明るい笑い声が境内にひびきわたった。
 リクは追いかけっこを止め、焚火の傍に戻ってきた。ミユも皆のふざけ合う様子をおかしそうに見守っていた。赤い炎に照らされ、ミユのハイビスカスがさらに赤く染まっていた。
 カニがゴリの背後にまわって背中にうり坊を乗せた。
 ゴリは驚いてうり坊を払いのけた。その手でカニをなぐった。思わず手の出たゴリもびっくりしていた。カニは尻餅をつき、目を見開き、ゴリを見上げた。カニのおびえた顔が炎には照らし出された。リク達は呆然とゴリとカニを見守った。先ほどまでの興奮はいっぺんに冷め、凍てついた。他の子供にまでカニの恐怖が感染した。
 その時、小屋から大きなうめき声が聞こえた。ゴリは気まずそうにカニを助け起こそうとした手が止まった。 「ミユ」と呼ぶ声が絶え絶えに小屋から聞こえた。ゴリはミユのほうを不安げに振り返った。
 ミユは我に返ったように立ち上がると、小屋にかけ込んで行った。ヨモギのうめき声と雄叫びが境内にひびいた。リクはヨモギが死ぬのではないかと怖れた。ゴリもリク達も立ちすくんだ。
 ミユがしばらくして小屋から出てくると、ゴリはかけ寄った。
「ヨモギは?」
「お湯を沸かして!」とミユはゴリに指図した。
「大丈夫なのか?」
「わからないよ!お産なんてはじめてなんだから!」
 ヨモギからある程度のことは聞いているものの、ミユもうろたえていた。ゴリも子供が生まれるのははじめてなのだろう。ただおろおろしているだけだった。
 ミユはゴリを押しのけ、石囲い炉に薪を放り込みはじめた。リクは肉を焼いていた焚火から火のついた薪を取り出すと、ミユに渡した。
 小屋から 「ミユ、ミユ」と呼ぶ声が聞こえた。ミユは湯を沸かすのをリクと代わってもらい、ふたたび小屋にかけ込んで行った。ゴリは入口に立ち、心配そうにのぞき込んでいた。
 カニ達も火を焚くのを手伝った。背後にヨモギのあえぎ声が聞こえる。それもだんだん早くなってくるようだ。新しい命が生まれようとしているのか。
 産小屋からヨモギの声が聞こえた。
「ミユ!女はこうやって赤ん坊を産むのよ、よく見ときな」
 ヨモギのうめき声が長く尾を引き、最後の雄叫びがひびいた。リク達は火を焚く手を止め、不安げに立ち上がった。静寂が戻った。リク達はどうしたんだろうと、小屋のほうを見て、立ちつくした。
 静寂の中に弱々しい赤ん坊の泣き声がかすかに聞こえた。リク達は顔を見合わせた。
 ミユが小屋から、慎重に赤ん坊を抱えて出てきた。慣れない手つきで赤ん坊を抱いていた。うれしそうに目が輝いていた。リク達はミユに近寄って赤ん坊をのぞき込んだ。まだ体が濡れたままで、血が体中にまとわりついていた。ミユは赤ん坊を抱えたまま、大鍋の湯加減を確かめた。ぎこちない手つきで赤ん坊の頭を支え、お湯に赤ん坊の体をソーッと沈めた。赤ん坊は弱々しくビックとして、か細い泣き声をあげた。
 リク達はミユの肩越しに赤ん坊をのぞき込んだ。弱々しい命がミユの手に身も心もゆだね、両手をにぎりしめ、なすがままにされていた。
「男の子だ!」とウサギが口にした。
「ちっこいくせに生きているよ」とヘソが口にした。
「当たり前だよ」ミユは嬉しそうだった。
 カニも先ほどのことは忘れたようにのぞき込み、手を出そうとした。
「だめだよ!あぶないから下がって」とミユがしかる。それでも興味津々で傍から離れなかった。
 ミユはまだ毛の生えていない赤ん坊の頭をそっと洗ってあげた。優しい手つきだった。リクは感心してミユの手つきを見守っていた。
 危なっかしい手つきだが、それでもミユが頼もしく見えた。
 リクは思い出したように後ろを振り返った。ゴリはうつろな目で小屋の入口で立ったままだった。リクは少し奇妙に感じた。ヨモギが気になるのだろうか、赤ん坊を見にもこない。ミユは産湯から赤ん坊を抱え上げると、顔をそっとぬぐってあげた。笑顔でゴリに赤ん坊を差し出した。
 ゴリは我に返り、ミユと赤ん坊を戸惑ったように見た。赤ん坊を受けとったものの、じーっと赤ん坊を不思議な得体の知れないような目つきで見ていた。まだ自分が父親になったことが実感できないのかもしれない。ぎこちない手つきで赤ん坊を抱え、途方にくれたようにこわばったままだった。
 ミユは赤ん坊をゴリに預けたまま、うす暗い小屋に入って行った。なにかお産の後始末をしているらしい。
 ゴリはうつろな目で赤ん坊をのぞき込んでいた。うす暗がりではっきりとは見えないものの、手で頭をなでたりしていた。ゴリは赤ん坊を揺さぶった。リク達が赤ん坊をのぞき込もうと近寄ると、ゴリはあわてて背中を見せ隠した。ミユがふたたび出てきて、赤ん坊を受け取とるとヨモギのもとへ抱いて行った。
 ヨモギの叫び声と泣き声が聞こえたのは、それから少ししてからのことだった。
 ヨモギの引きつったような泣き声は小屋の外までひびいた。リク達はあわてて小屋の中を覗き込んだ。
 ヨモギが赤ん坊を抱きしめ泣き喚いているのが目に入った。ミユが入口のリク達のほうに首を振ってみせた。
「さっきまで生きていたのに…」
「どういうこと?」
 リクがけげんそうに聞き返した。
「わからない!わからないよ!」
「だって、さっきまで元気に泣いていたんじゃないか」
 ヨモギはぐったりした赤ん坊を胸に抱きかかえていた。
 ミユはうなだれてヨモギの傍に立ちつくしていた。髪に挿したハイビスカスの花が落ちた。ヨモギのすすり泣きは続いていた。リクはハイビスカスの花を拾い上げるとミユに差し出した。ミユはうつむいたまま、リクの手を払った。ミユも耐えていた。
 どうすることもできず、皆、自分のねぐらに行った。リクも横になったものの、なかなか寝つかれなかった。ミユは小屋から出て来ず、ヨモギにつきそっているらしかった。
 今日一日、色々な出来事で興奮していた。ヨモギから命を与えられた赤ん坊はすぐ死んでしまった。
 自分も同じように母親から命を与えられた。そして今まで生きてこられたのが不思議だった。飢えにおびえながらも、本能で生きてきた。とにかくどんなことがあっても生き抜くことだけだ。奪われたイノブタの命はリク達の命を長らえさせてくれる。命が命を支えている。今までじっくり考えたこともなかった。ヨモギのすすり泣きがかすかに聞こえた。
 次の日、赤ん坊を埋めるため、リク達は小屋の入口に穴を掘った。幼くして亡くなった命を入口に埋め、その上を母親がまたいで通ることで、ふたたび命が宿ることを願った。
 ゴリは外ですわったままジッと地面を見つめ、穴掘りを手伝いもしなかった。リク達は穴を掘り終わると、ヨモギを気づかい、黙って立ちつくしていた。
 ヨモギは赤ん坊を抱え、一度も笑うこともなかった赤ん坊の顔を愛おしそうにじっとながめていた。ミユもつらそうだった。どうすることもできず、ヨモギの傍につきそっていた。
 ヨモギはぐったりした赤ん坊をそっと寝かしつけるように、穴に下ろした。冷たい地面に下ろすと、愛おしそうに赤ん坊の頬をなでた。足下から土をかぶせ、胸元までかぶせ終わると、もう一度最後に赤ん坊の顔をのぞき込んだ。
「またお母さんの子供になって、戻っておいでね」とヨモギは未練気に頬に触れた。涙がポタポタ落ちた。
 ミユは赤いハイビスカスの花を赤ん坊の胸元にそっと置いた。



続く