今日の映画

モースの左手

明治時代、大森貝塚を発見したモース

エオワード・シルベスター・モース ※出典 東京大学蔵

日本の学校において、考古学の成果を取り入れた授業は殆どなく、高校の日本史の 400頁余りある厚さの教科書の中で考古学に関するものは僅か十頁足らずである。
その中で、考古学に貢献し、名前が取り上げられている唯一一人の人間が、日本人ではなくアメリカ人のエドワード・シルベスター・モース(1838-1925)である。

トムンゼン、モンテリュウス、チャイルドを知らなくても、モースを知らない高校生、大学生はいないと言ってもいい程でモースの名前は日本では一般的に親しまれている。
またモースに関する研究書も20~30冊は優に越えるほど数多く出版されている。他の国でモースが果たしてどれほど知名度があるのかは知らないが、日本の考古学研究者は日本考古学史を学ぶ際、彼を評価するしないにも関わらず、避けて通れない最も重要な人物の一人である。

モースが日本において、如何してこれ程高く評価されるようになったのか、いきさつを述べる前に、彼の経歴を述べておきたい。

1838年にアメリカ合衆国メイン州の港町ポートランドの毛皮商の息子として生まれる。
16才の時、2度も学校を退学処分になったモースを見兼ねた父親は、絵の得意だった彼を製図工として働きに出すが、そこでもやはり長続きしておらず、仕事よりも当時人気のあった貝の収集に情熱を傾けている。

その甲斐があったのか彼の集めた貝の収集品は多くの愛好家、研究者に知れ亙ることになり、それがきっかけで学校での教養も何もないただの風来坊で終ったかもしれないモースに動物学の研究者としての道が拓けてくることになる。
彼の収集癖は日本に来ても遺憾なく発揮され、膨大な量の日本の陶磁器、民具をアメリカのピーボデイ博物館に納まり切らない程、持ち帰っていることでも、尋常でないことが分かる。

1859年、モースが21才の時、ハーバード大学のMuseum of Compative Zoology でルイ・アガシー教授の学生助手となり、腕足類の研究を本格的に始める。
折しもその年はダーウィンの『種の起源』が発行された年でもあり、敬虔なカルビン派のアガシー教授は腕足類を例に上げ、進化論に対し強固に反対していたが、皮肉なことに教授の弟子達は皆進化論に賛成の立場を取ることになり、教授の元を次々に去ってしまう。モースもやはり3年後には教授と袂を分かち、独自の道を歩み始める。

絵の得意なモースは挿し絵を書き、また講演で生計を立てるようになる。 モースは生来の器用さに加えて、元々右利きだったのが、ある時病気で右手が使えなくなった際、止も得ず左手で手紙、絵を書かざる得なくなり、右手が癒った後もそのまま左手も自由に使いこなせる両手使いになっていた。
彼はそれをうまく利用して、講演の際には話しながらも黒板に昆虫、鳥、貝等の絵を左右で巧みに書くというような芸当を見せ、尚且彼の話しはユーモアに溢れていたので一般大衆に人気を博し、度々新聞にも彼の通俗的な講演の評判振りが取り上げられるようになる。

講演だけでなく、モースは研究者として初めての研究論文“Observations on the Terrestrial Pulmonifera of Maine”を発表し、またアガシー教授の元で共に助手をしていた仲間と“The American Naturalist ”を創刊し、“The Land Snails of New England”を挿し絵と共に連載するなど活発な研究活動を行なっている。
モースが晩年に名誉館長となった彼と最も関わりのあった博物館the Peabody Academy of Scienceの研究員となり、その後は一般講演以外にもBowdoin College 、ハーバード大学で講義を持つようになった彼は学者としての地歩を固めることになる。

この様にアメリカで進化論の影響を受けて腕足類の研究に励んでいたモースは、1877年、 39才の時、腕足類が日本に数多く棲息するとの情報を聞き及んで、20日程も掛けて渡航して来ている。

当時の日本は、約 200年間も続いた江戸時代の封建制から開放され、近代の明治維新を迎え、さむらいの時代から天皇を頂点とした近代ブルジョアジー社会への移行期であった。
長い鎖国の為、欧米に比べ遅れた近代化を押し進めようと政府は躍起となり、欧米諸国から科学技術、学問等を導入し、近代国家へと脱皮を図っていた時代でもあった。
欧米では野蛮な国、未開な国と半ば恐怖と好奇の目で見られていた日本に研究心旺盛なモースは2年間滞在し、“E.S. Morse, the grand good friend of Japan”とまでいわれる程、日本の学問に多大な貢献を果たすことになる。

モースの研究分野は進化論、軟体動物、腕足類、鳥類、比較解剖学、天文学、気象、騒音公害、地理学、地質学、ドルメン、中国・朝鮮の研究、民族学等、多岐に亙り、それに加えて、挿し絵まで書きこなしてしまう器用さを持ちあわせていた。
天才とまでいわれ、彼の脳の構造は常人とは違うのではないかと考えられ、彼の死後には脳を解剖のために提供して欲しいと申し出る研究所まで現われる始末であった。
旺盛な研究心、器用さと収集癖であらゆる分野に秀でたモースは、日本でもその本領を遺憾なく発揮し、日本の学問に大きな影響を与えている。

日本に着くやいなや、東京大学に創設されたばかりの理学部の動物学の教授に任命され、日本に初めて進化論を紹介し、また東洋で初めての臨海実験所を開設するなど矢継早に実績を上げて行く。
日本に関する著作も数多く著わし、 “Japan Day by Day”、 “Catalogue of Japanese Pottery ”、“Japanese Homes and Their Surroundings”、“Dolmens in Japan”等、彼の興味は専門の動物学以外にも及んでいる。

他の学問と同様、明治時代の考古学もまだ本格的な学問として成り立っておらず、石鏃は天から降って来たものと考えられ、貝塚は巨人が作ったものと考える程度のものであった。
ルイ・アガシー教授が聖書が正しいと執着したと同様に、日本では『古事記』、『日本書紀』の神話が信じられ、歴史は神から始まると何の疑いもなく信じられていた。石器時代の存在などの科学的認識は到底考えられもしない時代であった。

アメリカで貝塚の調査に参加したことのあるモースは、日本に着いた次の日には貝塚を発見し、‘Kjoekken-moedding ’だと早速発掘調査に乗り出している。
これが日本で最も有名な貝塚-「大森貝塚」である。日本では「大森貝塚」でもって日本考古学の発祥の地とされる。

モースは発掘調査後、日本で初めての科学的な調査報告書“Sell Mounds of OMORI”を東京大学から発行し、その内容は‘Pottery,Ornaments, Tablets, Implments of Horn and Bone, Implements of Stone, Remains of Animals, Cannibalism, Flattened Tibia, A comparison between the Ancient and Modern Molluscan Fauna of Omori’ 等以外にも地形・地理・環境にも触れ、また彼の挿し絵の技術で土器、石器、骨角器の実測図を載せている。
この中で、後に日本の石器時代の時期区分-縄文時代-の語源になった‘the cord mark ’の単語を用いている。
大森貝塚の縄文を施した土器がアメリカのthe Florida moundsにも見られることから、日本にもかつて石器時代のあったことをモースが大森貝塚で初めて立証した。

モースは動物学の片手間に、つまり彼の器用さで-譬えれば左手でほんのちょこちょこと発掘しただけの大森貝塚が、日本の歴史観、日本の考古学を大きく変えてしまったのである。

しかし、当時、日本の歴史は千年程前から始まると頑なに信じられており、モースの成果が直ちに受け入られたわけではなく、日本を研究する欧米の学者たちから、モースに対する批判が多く出された。 モースはその批判と誹謗に対し、冷静に時には痛烈に反論を執拗に繰り返した。モースは自分の持てる知識を駆使して、貝塚から出土する貝類が現生種と違うこと、大森貝塚の土器が江戸時代の日本の陶器でなく、石器時代のものであることを丹念に立証していった。

しかし、不幸なことに日本の考古学者にはまだまだ実証的な学問の下地は芽生えておらず、モースの学問に対する正当な評価を行なえずにいた。
彼の日本人の弟子たちの多くが他の分野に進み、考古学の後継者は育つことがなかった。
モースの死後、1930年代になって漸く、日本の考古学は本格的に芽生え始める。土器の編年はこと細かく行なわれ、今では世界的なレベルまでに達し、モースの発掘した大森貝塚は縄文時代後期から晩期の貝塚であることは今では揺るぎない事実であり、彼の学問は正当に再評価されるようになった。

今、日本では年間数百件の発掘調査と、数百冊の報告書が刊行され、大学では数百人の学生が考古学を学び、多くの人々が考古学に興味を持つまでになっている。
考古学理論も飛躍的に進歩したにもかかわらず、日本の考古学の黎明期に活躍したモースを日本考古学は彼抜きでは語れない。
また、考古学者以外でも日本人は考古学と言えば、モースと大森貝塚を思い浮べる程、モースは日本に大きな足跡を残している。

最後に、モースが日本の弟子松浦佐用彦の碑文に刻んだ言葉を引用しておきたい。

物質界でも精神界でも最後に判定を下すのは権威ではなく、観察と実験である

主要参考文献

E・S・モース『日本その日その日』石川欣一訳 東洋文庫 平凡社 一九七〇 日本その日その日 (1) (東洋文庫 (171))
磯野直秀『モースその日その日』有隣堂 一九八七 モースその日その日―ある御雇教師と近代日本
椎名仙卓『モースの発掘』恒和選書十一 恒和出版 モースの発掘―日本に魅せられたナチュラリスト (恒和選書)


追記 この記事はずいぶん以前に書いたものをここに公開しました。もともと英文記事Morse`s left handで発表するための日本語版です。モースの第一の弟子、日本で初めての考古学徒松浦佐用彦についてもこのブログに掲載しています。覗いてみてください。