奈良・平安時代の「環状鈕」を有する須恵器坏蓋について


〜その系譜及び背景についての1、2の素描〜
 
1.はじめに
 「環状鈕」を有する須恵器坏蓋について、佐波理椀 を模したもの、と具体的事例で述べたのは田辺昭三が最初ではなかろうか。奈良時代半ばの須恵器生産の画期として、須恵器の金属製容器の模倣にあるとし、陶邑光明池16号窯跡の蓋付椀を例に挙げている。しかし、この金属製容器を模したとされる環状鈕の須恵器坏蓋は、関東及び山陰に於いては古墳時代末には既に生産・供給され始めており、関東の須恵器生産の画期〈律令制確立期当初〉から出現する土器である。これは関東に於ける本格的な須恵器生産体制が整う古墳時代終末後の須恵器生産の第1波に相当し、ただ単に金属製容器の模倣からのみ、この「環状鈕を有する須恵器坏蓋」の出現の背景を語るには一面的過ぎるものと考えられる。

 関東の研究者間に於いても、「環状鈕」は奈良・平安時代の関東に於いて須恵器坏蓋の特徴的な、ある意味では一般的な一形態であるとの漠然とした認識は持たれてはいるものの、また関東の特に北関東の須恵器生産の展開の中に於いてのみ語られることはあったものの、しかしながら、その独自性を取り上げ具体的に論及はされることは少なかった。そこで拙稿では環状鈕の須恵器坏蓋に焦点を当てて、律令制の中でその出現の系譜及びその位置付けについて若干の素描を試みたいと思う。
 尚、「環状鈕」と呼ばれる須恵器坏蓋は、その鈕の形態・貼付方法等の違いからして輪状、高台状、リング状等と種々に呼称されるものの 、本稿で混乱を避けるために通例に従い「環状鈕」と呼ぶことにする。


2.分布状況
 環状鈕の出土遺跡は全国で、管見に及ぶ限りでは遺跡数約 150か所を数え、遺物総点数は 500点余りである。大部分が集落跡と考えられる遺跡からの出土であるが、出土パターンを幾つかに類型化できそうである。1.集落跡、2.窯跡、3.官衙跡、4.古墳・横穴墓、5.その他−火葬墓・骨臓器、鍛冶工房跡の5つのパターンに類別できる。
 また、環状鈕の形態は数種類に分けられるが、陶邑産に観られる鈕の断面形が方形で直立するものB類(108・109)と断面形が三角形に近くやや外開きのものA類(67)に大きく分けることができる。

1.集落跡 
 集落跡出土例は全国で約 110か所である。東北地方では山形、宮城の2県に集中し、関東では北関東の群馬、埼玉の2県に集中する。この2県で全国の半数近くの量が出土している。埼玉・群馬の周辺地域では東京で10遺跡程、栃木・千葉の2県を合わせて10遺跡程である。中部・東海・北陸地方でほとんど出土例は認められず、富山・石川・福井の北陸地方に僅か1例ずつ認められるのみである。近畿地方では琵琶湖の湖南にやや集中している程度である。山陰地方では鳥取、島根に集中度が高く、群馬・埼玉に次ぐ出土例が認められ、中でも出雲国府を中心として松江・安来市に密集している。瀬戸内海地方では出土例は認められていない。四国では高知で高知平野部に3例認められる。しかし、共に官衙的な要素の濃い遺跡である。九州では福岡、熊本にやや多く、佐賀にも1例認められる。熊本からの出土例は 155の須恵器を除いて全て土師器の蓋であることが特徴である。土師器の蓋としては福岡の薬師堂東(147)、宮城の山王(19)、時代は10世紀後半と下るが高知のひびのきサウジ遺跡例がある。

2.窯跡
 18例が認められる。山形の荒沢1号窯跡(8)、葉山3号窯跡(13)、茨城の木葉下窯跡(25)、栃木の北山窯跡(32)、八幡5・6号窯跡(35)、群馬では八ケ峰窯跡(46)、埼玉では山下6号窯跡(67)、小谷B窯跡群6・8号窯跡(68)、赤沼地区第9支群(69)、虫草山窯跡(70)、東京では百草1号窯跡(87)、北陸では石川の戸津5号窯跡(93)、近畿では大阪の陶邑( 108)、兵庫の落合窯跡1・2号窯跡(109)、中国地方では島根に集中しババタケ窯跡(120)、山津窯跡(121)、本片子窯跡(131)、山口の末原窯跡2号窯跡(138)の18窯跡である。この中でかえりを持つ古い様相の蓋を生産した窯跡は栃木の北山、八幡窯跡、島根のババタケ窯跡である。

3.国府・郡衙等の官衙跡
 多賀城跡(18)・武蔵国府(84)・平城京(106)・出雲国府(122)・石見国府(129)・美作国府(133)・周防国府(141)・肥前国府跡(151)から、十三宝塚(50)・大高野(115)、下本谷(136) 等の郡衙推定地からは11例出土が観られる。

4.古墳・横穴墓
 出土例は19例である。色麻古墳(15)・山畑装飾横穴古墳(16)・金山古墳(36)・朝日塚古墳(38)・庚申塚(40)・奥原古墳(41)・引間古墳(42)・醍醐古墳(105)・石峯(107)・空山古墳(110)・大谷古墳(113)・東宗像横穴(117)・内ノ倉山横穴(118)・高広横穴(119)・道仙古墳(123)・奥山横穴(127)・朝日田墳墓(140)・下和白塚原古墳(145)・吉野古墳(146)等が挙げられる。群馬の古墳、島根・鳥取の古墳・横穴墓で大部分が占められる。

5.その他
 火葬墓・骨臓器としての使用例は僅か2例で岡山の旦原(135)、大分の勘助野地(149)に観られ、共にA類のものを使用している。鍛冶工房跡と考えられる遺構からの出土例も僅かであるが報告されている。新潟の番場(22)、群馬の鳥羽(39)、埼玉の越生五領(76)の3か所で、共に集落跡内に設けられた鍛冶工房跡である。

 以上の出土例パターンの相互関係を観てみたい。
1と2は関東地方で観られるように比較的相互関係が観られるものの、九州地方に観られるように2.を欠き、他の地域からの供給を受けていたと考えられる地域も存在する。熊本の場合はそれを須恵器以外の土師器で補う例が見受けられる。また大阪の陶邑、兵庫の落合窯跡1・2号窯跡、札馬窯跡26号窯のように2のみで1の集落跡が近辺に認められないものも存在する。この場合は資料の抽出に問題があるかもしれないが、しかし関東地方に観られるように生産地と消費地との一体化は観られず、一方的に生産地として供給の役割だけが求められた結果の可能性がある。尚、茨城の木葉下窯跡についても同様のことが言るかもしれない。

 3の官衙跡からの出土の蓋はA類が多く、平安時代になってからのものが大部分を占め、また出土数も少なく他の蓋に対する比率も1%に満たない程である。出雲国府の周辺地域には1の集落跡及び2の窯跡が観られるものの、しかし国府域での出土点数は1点のみであり、官衙跡に於ける環状鈕は客体的な存在を示しており、環状鈕を通じての1と3の直接的な紐帯は認め難い。それは他の国府域でも同様のことが言えそうである。

 4の古墳・横穴墓出土例は群馬、鳥取・島根の2つの地域に特徴的に観れられるものである。鳥取・島根の場合は横穴墓が比較的多く、群馬の場合は古墳に限られる。この2つの地域では7世紀末の蓋が副葬され、また周辺の集落跡にも同様の蓋が出土し、更に古墳が終焉を迎えた後にも継続して集落跡から出土しており、1と4に明らかに相互関係が認められる地域である。しかし、京都の醍醐古墳、奈良の石峯、福岡の下和白塚原・吉野古墳の4つの古墳は6〜7世紀の古墳であり出土している環状鈕もかえりが大きく外にはみ出る特徴的なものである。また宮城の色麻古墳(15)・山畑装飾横穴古墳(16)についても同様のことが言え、環状鈕を保有する集落跡は後にも出現しておらず、本論での4.から除外されるべきものであろう。
 
 次ぎに大まかに時期区分すると第1期−7世紀末〜8世紀初頭、第2期−8世紀前半、第3期−8世紀後半、第4期−9世紀となる。時期別分布状況を概観して観たい。

 第1期−4の古墳・横穴墓の分布域及びその周辺地域1の集落跡に限定される。群馬・埼玉と鳥取・島根の掛け離れた2つの地域に規模の大小はあれ、古墳・横穴墓という共同体的な社会的紐帯を持つ地域から初期の蓋は出現し、集落跡からも多量に出土が観られ、2.の窯跡も周辺地域に認められる。

 第2期−4の分布域で古墳・横穴墓の消滅後の1の集落跡において更に継続・拡大期にあたる。そして重要なことは8世紀になり、坏の切り離しが糸切り技法を共に採用していることである。かえりを有する蓋からかえりの消滅した段階で「糸切り技法」という画期を迎えていることが特徴である 。この段階になると関東地方では2.の窯跡が増大し埼玉の山下6号窯跡を始め比企郡鳩山町周辺でB類が生産され、また多摩丘陵の和田・百草窯跡にまで波及しおり、多摩丘陵部分の集落跡にまで広がりを観せている。鳥取・島根でも関東とは若干の相違はあれ、同様のことが言えそうである。この2つの地域以外では近畿地方で僅かに滋賀の宮川アリヲヲジ( 102)にこの時期のものが認められるものの、他の東北、北陸、九州では出現には至らない。

 第3期−全国的な拡散期にあたり、山形、宮城にも集落跡・窯跡にまで波及し、「糸切り技法」も同時にこの地域にも導入される 。九州の熊本にも波及しているものの、熊本では大部分のものが土師器の蓋と言う特徴ある形態を示している。また3の官衙跡からの出土のものもこの時期のものが大部分である。2の窯跡からは陶邑を始め関西方面の地域でB類が多く観られ始める。

 第4期−9世紀初頭までは比較的1.、2.、3.共に認められるものの、前半から後半にかけてその量は3.期に較べ激減する。1.では群馬・埼玉の集落跡以外に山形の沼田(2)、俵田(4)の9世紀後半の集落跡、新潟の金屋遺跡(23)等に認められ、2.では栃木の八幡窯跡(35)、山口の末原窯跡( 138)が挙げられよう。その後10世紀頃まで残存するものの、蓋の中において最早中心的存在とはなりえず、須恵器生産の衰退と共に消滅の過程を辿る。


3.系譜及び背景
 日本に於いて環状鈕須恵器坏蓋の出現期は7世紀末から上野・下野地方及び北武蔵の埼玉、そして山陰地方の出雲、伯耆に特に集中していることを窺い知ることができる。上野・下野及び出雲・伯耆のものは共にかえりを有するものであり、初現期をこの2つの地域に求めることができる。官衙跡と考えられる遺跡の出土例は僅少で、また時期的にも環状鈕が最盛期に入ってからの出土であることから、中央の工人達による伝播によらないで、上野・下野、出雲・伯耆地方に於いて何らかの契機による在地的発生と考えられよう。しかし、7世紀末は既に律令的土器生産体制の第1波に相当し、この2つの地域に於いて中央とは全くかかわりなく独自に須恵器生産が開始されたものではなく、第2.期から第3.期にかけて律令体制確立時には環状鈕が汎日本的に出土することからして、律令体制に組み込まれつつも在地的要素の強い須恵器蓋を生産・消費していた結果と考えられる。また環状鈕を古墳・横穴墓に葬祭供献すると言う特殊性も観られ、他の地域に先駆けてその独自性を当初から確立していたものと思われる。
 第1・2期に於いて陶邑を始めとする窯跡では擬宝珠状の鈕の蓋がメインであり、また他の地方窯に於ても同様に環状鈕は客体的な存在であり、また坏の底部切り離しもへら切り技法に限られる。しかし、北関東・出雲・伯耆の地域に限り、擬宝珠状鈕と同等かそれ以上の量の環状鈕が生産・消費され、また同時に坏の底部切り離し技法もかつて日本の伝統技法に観られなかった「糸切り」という新技法をいち早く取り入れ 、他の地域とは趣を異にしている。環状鈕・糸切り技法は伝来の系譜・技法の延長線上に成り立っておらず、その成因は外部に求められる可能性が強い。
 初期の須恵器生産が朝鮮半島からの技術導入によって生産が開始されたことは論を俟たないが、しかし初期須恵器生産に限らず古代日本の文化変革期にはやはり半島からの文化・技術導入により、新たな展開を見せてきており、渡来人の直接及び間接的な参加・技術伝達が多大な影響を及ぼしていたものと考えられる。
 北関東・出雲・伯耆の環状鈕に間接・直接的に影響を与えたと考えられるものを求めるとすれば、半島の統一新羅の時期が考えられるが、際立った類似例は管見に及ぶ限りでは見当たらないが、図に掲載した156 〜166 が百済・新羅及び統一新羅期のものであり、細部の相違は置くとして、環状を呈する盒の蓋に5世紀代から散見される。これらは古墳出土例が大部分を占めるものであり、 156〜 158は百済期のものと考えられ、5〜6世紀のものであろう。 160は桂城C−12号墳出土の新羅期のもので、百済地方のものが新羅地方に波及したもので6世紀後半から7世紀初頭の年代が考えられる。 161は百済期の九龍里古墳出土の三足土器で7世紀初頭の年代が考えられる。 162は西岳里古墳出土のもので統一新羅でも最古の分類に含まれ7世紀前半の年代が考えられている。163、164は共に百済系統のもので、165は古新羅系のもので、7世紀中葉の所産と考えられ、3点共に雁鴨池出土のものである。166は時代は下るが天徳寺址出土の9世紀のものである。
 また統一新羅土器の舶載品例が日本各地で徐々に報告され始めており、古墳、官営施設、寺院、金属加工生産遺跡、東国の集落遺跡等からの出土例が報告されている。これらの搬入背景は国家的レベル・氏族レベル・個人レベルと夫々出土パターンにより相違が観られることが指摘されている。模倣品ではなく、統一新羅土器が直接舶載されていることから、この時期に於いても渡来人の存在が想像される。実際、672〜 701年には遣唐使は途絶えたにもかかわらず、新羅との国交は668〜 700年の間に遣新羅使は10回、新羅使は25回を数え 、国家的レベルでの交流が行われており、律令制成立過程に於いて唐ではなく新羅の諸制度を導入せざるを得なかったものと考えられる。律令制のみならず、仏教面でも新羅仏教の受容が大きく、日本の奈良仏教に色濃く影を落としている。そうした国家的なレベル以外の事象にも当然新羅の影響は日本の諸文化にも及ばずにはいられなかったものと考えられる。
 出雲地域では出雲国分寺の創建瓦は新羅の影響を受けた瓦であり、また教昊寺でも7世紀末と考えられる新羅系瓦が出土し、鰐淵寺には新羅様式の金銅仏が存在する。環状鈕の出土している高広横穴群では「高麗剣」と呼ばれる朝鮮系の双竜式環頭大刀が出土しており、また環状鈕の高台を有する坏身は時代は上がるものの朝鮮半島の盒に比較的類似しており、また隠岐では陶質土器が出土しているといわれ、更に新羅様式の金銅仏が山陰の海岸地域には幾つか観られ、国家的レベルだけではなく漂着の様な個人的レベルをも含め様々な形で渡来人の痕跡も数多く残されている。
 『日本書紀』、『続日本紀』には東国に数多くの渡来人が移住した記事が見える。天智5年(666)百済人を東国へ、天智13年(684)百済人23人を武蔵国へ、持統元年(687)高句麗人56人を常陸へ、新羅人14人を下毛野へ、持統2年( 688)百済人を甲斐国へ、持統3年(689)新羅人を下毛野へ、持統4年(690)新羅人を下毛野、武蔵国へ、霊亀2年(716)東国7か国の高麗人1799人を武蔵国へ、高麗郡を設置、天平宝字2年(758)武蔵国に新羅郡を設置、天平神護2年(766)上野国多胡郡に新羅人193人住む等々が挙げられる。古墳時代末から東国に移配された渡来人達は東国の開発・経営に大きく関与していたものと考えられる 。文献に観られる渡来人の移住ばかりではなく、東国各地には渡来人が関与したと思われる事象が数多く残され、そして特に寺院とその瓦については数多くの研究が観られる。
 しかし、今のところ管見に及ぶ限りでは、渡来人と深い係りのあった寺院跡から環状鈕の出土例は観られず、また渡来系とされる東国に於ける古墳出土の銅椀にもその形態上の類似は認められない。東国に於ける環状鈕と渡来人の関係を示唆する具合的な事跡は見出せていない。  文献上数多くの渡来人が東国開発に係ってきたと同様に出羽・陸奥地方にも同様の律令国家の施策が及んでいること窺い知ることはできる。蝦夷との軍事衝突の際には東国から兵士が徴発され、また和銅7年(714)に上野、尾張、信濃、越後の富民 200戸を出羽柵に移配したのを始め、延暦年間(802)まで陸奥・出羽には数多くの関東の富民・浪人を移配していることが知られている。この地域の庄内平野部、仙台平野部にも環状鈕が集中的に出土する地域が存在し、また8世紀後半からは須恵器坏の底部糸切りに回転糸切り技法も観られ 、上野・下野との何らかの関係が想定されるものと思われる。多賀城の創建瓦にも上野・下野と考えられる文字瓦が出土していることからも、何等かの形で瓦・須恵器生産に上野・下野の人間が関与していたものと考えられる。

 4.おわりに
 環状鈕の須恵器坏蓋の分布状況は偏りが観られ、その主な分布圏は北関東、出雲に集中していることが特徴的である。それも7世紀末から8世紀の環状鈕の出現期にこの両地域での古墳・横穴に副葬されるという特質を持ち、更に底部切り離しの糸切り技法も同時にこの地域に観られるのは何等かの共通項があったものと考えられる。その共通する社会的背景は何を意味するのか、百済・新羅から統一新羅期にかけての渡来人が日本の律令社会に残した一現象ではないかと考えて観たが、小稿では力量不足もあり十分論を尽くせなかった。また糸切り技法については半島との関係を把握するに至らなかったが、韓国の慶星大学校申敬 先生によると半島では7世紀から8世紀には糸切り技法は存在し、雁鴨池遺跡には特に数多く出土しているとのことである。糸切り技法も同時に環状鈕と共に半島から持ち込まれ、東国に移配された渡来人達によって製作・供給されたか、または技法の伝達があったものと、ここでは予察しておきたい。


 このノートは同人誌「牟邪志」3号に発表したもので、すでに絶版になっており、手元にないために本文のみアップした。