豪州における刃部磨製石斧

Aborigine’s Ground-Edge Axes in Paleolithic

Buna Maeda   

Abstract

The ground-edge axes dated back more than 20,000 years in Australia.  When they were first discovered, many archaeologists thought that it must be some mistake.  They had never been found older than 4,000 years ago in Australia, New Zealand and the Islands of the Pacific Ocean.  In Europe, all of most archaeologists believed that the technique of grinding axes belonged to the Neolithic period and therefore these were not the world’s earliest evidence for the technique of hammer-dressing, edge grinding tools. But in Japan, the same old ground-edge axes were excavated from the Paleolithic. It is the key how for human beings adapting environment and ecosystem. The old axes were the one of human beings’s items of as a unique situation in the Australian and Japanese Paleolithic.

要約


 豪州では2万年を遡る磨製石斧は考古学的にも人類史的にも特異な状況として注目されて来た。日本列島でもほぼ同年代の磨製石斧が出現していることは、新人類の拡散の過程を知る上で人類の重要なアイテムと考えられる。豪州の北端部、トップエンドのアーネムランドのナワモイン岩陰遺跡から出土した刃部磨製石斧を取り上げ、日本の刃部磨製石斧と若干の比較検討を行なった。
  日本の石斧については狩猟採集、horticulture、初期農耕の生産活動の転換期に石斧は質、量、製作技法共に変化を見せ、後期旧石器初頭、縄文時代初頭、弥生時代初頭とそれぞれの適応帯の変移に伴い出現していると考えられる。豪州の先史時代の石斧は2度の質的変化、尖頭器の新たな出現、貝塚の形成等の変化は認められるものの、それらは狩猟採集活動の同一の適応帯内での緩やかな変移であり、日本のような急激な適応帯の変移のような転換期を迎えないと考えられる。しかしながら初期の豪州と日本に共通する刃部磨製石斧は人類拡散過程での所産の可能性が考えられる。

Ⅰ はじめに


豪州のマイノリティー、アボリジニの生活スタイル自体が現代社会に於て極めて少数派である。その精神世界も現代”文明”社会とは異質であるばかりではなく、彼らの精神生活を具現する芸術活動は”primitive art“として現代アートに大きな影響を与えている。そしてしばしば彼らの精神世界は西欧社会から特別に”Dream Time”と呼ばれることもある。
マイノリティーとしてのアボリジニの現代社会におかれた状況以外に、豪州では2万年を遡る磨製石斧が遺跡から出土していることは考古学的にも人類史的にも特異な状況として注目されている。小島国日本と大島国豪州に期せずしてほぼ同年代の磨製石斧が出現していることは、新人類の拡散の過程を知る上でも鍵となる人類のアイテムと考えられる。日本の後期旧石器初頭の剥片石器の占める中で既に定型性を持つ刃部磨製石斧は、小島国日本に人類がいつ到着したかの「謎解き」の上でも豪州のものと共に重要な石器と考えられる。
ここでは豪州の北端部、トップエンドのアーネムランドのナワモイン岩陰遺跡(Nawamoyn shelter site)から出土した刃部磨製石斧を取り上げ、日本の刃部磨製石斧と若干の比較検討を行いたい。

Ⅱ ノーザンテリトリーの遺跡


ノーザンテリトリーは豪州の中央部北に位置する準州である。その中でノーザンテリトリーのダーウィンを中心とする北端は特にトップエンドと呼ばれている。ダーウィンは第二次世界大戦で日本軍が侵攻を行った都市としても有名である。ダーウィンから約200km西方には広大なカカドゥ国立公園、アボリジニの居住区であるアーネムランドを中心として2万年前を遡る遺跡が多く発見されている。

それらの遺跡の多くは岩陰遺跡で、壁面に描かれた岩絵は世界的にも有名なものである。岩絵の存在する岩陰は聖地であると共に生活痕も認められる遺跡も多く、両者を切り離して考えることはできない。

また墓所となっている岩陰もあり、そこにもやはり岩絵は認められ、精神世界と不即不離の関係にある。それらの岩絵は時代により題材が変化を遂げ編年の役割をも果たしている。しかしながら豪州の考古学の編年は、土器が存在せず、日本のような土器編年観は存在しない。また日本の旧石器時代編年のように示準となる石器は極めて少なく、かつ一型式の石器が長く存続するという問題もあり、豪州における年代決定は科学分析に大部分を依存しているようである。


そうした状況下でもトップエンドでは大きく4時期区分が行われ、「pre-estuarine」、「estuarine」、「freshwater」、「contact」の名称で呼ばれている。pre-estuarineは日本で言うところの中期旧石器から後期旧石器時代に相当し、刃部磨製石斧、片面加工の剥片類、スクレイパー、叩石、馬蹄形のやや小形の石核類(horsehoof)が出土するようである。estuarineは年代的に縄文時代に相当し、磨製石斧、両面加工の剥片類、両面加工の尖頭器が出土し、貝塚形成も認められる。freshwaterは日本の縄文以降に相当すると考えられる。

しかしながら豪州の取り巻く環境からしてhorticulture(園芸)の段階は認められないようである。contactは西欧社会の侵入後の時期を当てはめ、1770年にクック船長が豪州に到着した以降の植民白人社会によるアボリジニ迫害は世界史的にも有名な出来事である。特に1788年に本格的な白人社会の植民開始後、百年足らずの1876年にはタスマニアのアボリジニが全滅する惨劇は歴史に刻印される。4時期区分以外にアボリジニの先史時代についてDream Timeと呼ぶこともあり、こうした呼称は考古学的なものではなく、アボリジニの精神世界を表現する用語として使われることがある。特に岩絵はDream Timeの所産としての解釈が多い。


アーネムランドにおける遺跡数は膨大な数になると考えられる。アーネムランドを訪れた際、ガイドに案内してもらった遺跡は1日で5、6ケ所程で、それらの遺跡には殆ど名前が付いていないようである。少なくとも現地の言葉では何等かを指す地名なりは存在するものと思われるが、所謂遺跡名は存在していないものが多いように見受けられた。岩陰に多くが残されてた岩絵の時期は題材、手法により区分されるものであるが、古い岩絵を再度なぞったりするために、遺跡の始源はいつまで遡るかは分からず、いつの時代からか現在まで連綿と岩絵が描かれ続けられているようである。埋葬場所、儀礼場所等を数え上げると遺跡は相当な数に上るものと考えられる。

過去の適応放散の結果、アボリジニの言語の種類は500余りもあるとされているものの、海岸部、内陸部の生態的環境は違っており、それに適応した狩猟・採集形態を選択し、雨期と乾期の季節変化が明瞭で基本的には岩陰等をホームベースとして一定のエリア内で季節移動を繰り返しているようである。豪州外からの植民は大きく分けて2時期考えられており、最初の植民は4、5万年前かもっと古く遡れば6万年前が考えられている。その後、後氷期の4千年前に犬ディンゴと共に植民した2時期が考えられている。


ナワモイン岩陰遺跡は1970年代にアーネムランドのウラン開発等に伴い、アーネムランドの環境調査の一環として調査されており、それ以外にも著名なマラガンガール(Malangangerr)、マラクナンジャ(Malakunanja)、ナウワラビラ(Nauwalabila)が知られている。


マラガンガール岩陰遺跡はSchrire、Rhys JonesとMichael Smithにより調査が行われており、サーモ・ルミネッセンス法1.5万年、C14年代測定では2.3万年の数値が得られている。また後年のRhys JonesとMichael Smithの調査では3.2万年が得られており、日本で言うところの後期旧石器時代初頭に近い年代値が得られており、刃部磨製石斧は2.3万年まで遡る資料となっている。これは日本で言うところの姶良降下火山灰の直前位に匹敵する年代値である。マラガンガール岩陰遺跡ではそれ以外にも日本の縄文時代早期前期に相当するものも発見されているようである。


 マラクナンジャ岩陰遺跡はJohan Kammnga、1980年にはRhys Jones、Michael Smithによって調査が行われている。Kamminga の調査では1.8万年、Rhys Jones、Michael Smithの調査ではサーモ・ルミネッセンス法では5万年(KTL158) と言う飛び抜けて古い年代値が得られている。また6.1万年(61000+9000/-13000BP(KTL164))のものが僅かに出土したとなっているものの、果たしてこの年代値が果たして正確なものかは課題となりそうである。


 ナウワラビラ岩陰遺跡は発見者である地元の探検家のDave Lindnerに因みLindner遺跡とも呼ばれている。1972年にDave Lindnerが石槍を発見し、1973年にはJohan Kammnga、1981年と1989年にRhys Jonesによって調査が実施されている。手斧(hatchet)が出土しており2.5〜3万年前と考えられている。

Ⅲ ナワモイン岩陰遺跡の刃部磨製石斧


豪州の2万年を遡る磨製石斧が日本で注目されることは極めて少なかった。

筆者の知るところでは小田静夫チャールズ・キーリによる日本の刃部磨製石斧についての論巧中(1)に断片的に日本以外のものの中で触れたもの、また1974年の小林知生の論巧(2)の中で、ナワモイン岩陰遺跡の刃部磨製石斧が取り上げられているものの、東南アジアにおける編年観との絡みで触れられたものであり、特に豪州の2万年を遡る石斧として取り上げられたものではない。日本の後期旧石器時代初頭の南関東立川ロームIX、X層の姶良降下火山灰以前の刃部磨製石斧の出土量が増えているにも関わらず、日本人研究者による諸外国の磨製石斧の追究は極めて少ないと言わざるを得ない。


ナワモイン岩陰遺跡については、1965年にCarmel Schrireの豪州国立大学のチームにより発掘調査が行われており、報告書『The Alligator Rivers prehistory and ecology in western Arnhem Land』(1982)が豪州国立大学から発行されている(3)。

基本層序は3層に分かれており、I層は貝塚形成が認められ、上下層に分けられている。埋葬人骨、骨角器、両面加工の尖頭器が出土している。C14年代測定値は7千年前(ANU-53)である。重量感のある磨製石斧が13点出土しており、刃部を研磨し、直刃か円刃で片刃のものが大部分である。長さは8㎝から9㎝のものが大部分で比較的小型のものが多く、厚さは4㎝弱で長さの割りには厚手のものが多い。側縁に僅かに加工調整を施し、刃部を丁寧に研磨する。古い段階の石斧に見られるような装着溝は認められない。石質は玄武岩製である。II層からは2点の刃部磨製石斧と2次加工痕のある剥片類が出土しているものの、下層のIII層と連繋したものと考えられている。III層は上下層に分層が行われている。上層のIIIa層からは馬蹄形石核類(horsehoof)、スクレイパー、主に片面2次加工痕のある剥片類、使用痕のある剥片類、叩石、刃部磨製石斧3点等が出土している。下層のIIIb層からはスクレイパー、刃部磨製石斧6点等が出土している。IIIa層とIIIb層は遺物の多寡が若干あるものの、特に器種組成の変化は認められないようでありほぼ同一文化層と把握できそうである。


1はIIIa層、他はIIIb層からの出土の石斧である。全て1965年のCarmel Schrireの調査によるものである。1は長さ10.7㎝、幅8.2㎝、厚さ5㎝を計測する。全体的に風化が激しいが、表裏面共に粗い調整加工が施され、表面中央部が盛り上がるように厚みを持つ。刃部両面共に研磨が施される。表面の研磨は粗く、裏面は強く研磨され、擦痕が見られる。刃は円刃で片刃と考えられる。両側縁中央部は調整加工によりやや内湾し、若干の摩耗痕が観察され、装着痕の可能性が強い。石質は玄武岩である。

2は三角形を呈する小型のものである。長さ9㎝、幅6.4㎝、厚さ1.9㎝で、扁平なものである。風化が激しいものの、表面には両側縁からの調整加工を施す。円刃の刃部にはやや細かな調整加工を連続的に施す。裏面については風化のため調整加工痕は明瞭に把握できない。また研磨痕も観察できないような状況であった。基部についてはすぼまり、基部先端部は落剥している可能性がある。器肉は比較的薄く、刃部は片刃と考えられる。器体左側縁には石材鑑定の為にカットされており、ホルンフェルスとの分析結果となっている。やや砂岩質である。

3は長さ7.3㎝、幅5.4㎝、厚さ1.9㎝の扁平な三角形を呈する小型の磨製石斧である。表面には両側縁から調整加工を施し、裏面は基部方向からの大きな剥離痕を残す。刃部は表裏面共に研磨を施し、やや円刃気味で片刃と考えられる。石質はホルンフェルスである。やや頁岩に似る。

4は基部、裏面は落剥する。残存長8.6㎝、幅7.4㎝、残存厚3.6㎝を計測する厚みのある磨製石斧である。この石斧の特徴は明瞭な装着用の溝(groove)を有することである。同様の溝を有するものはマラガンガール岩陰遺跡からも出土しており、刃部磨製石斧に占める割合は極めて少ないものの、示準となる石斧である。ナワモイン岩陰遺跡から出土した本石斧の溝は幅1.2㎝から1.5㎝で深さ2㎜程度のものである。裏面にまで溝が巡るかどうかは不明である。石材鑑定のために右側縁部はカットされている。石材は玄武岩である。

5は基部が欠損したもので、残存長6.3㎝、幅6.4㎝、厚さ3.2㎝を計測する。表面には粗い調整加工痕が見られ、裏面は一つの大きな剥離痕が認められるだけである。両側縁は抉れ、浅い溝となり摩滅痕が認められ装着痕と考えられる。刃部はやや丸味を持ちやや摩耗する。石質は石英製である。他にもう1点の石斧が報告書に掲載されているものの、実見することができなかった。2、3と同様の小型の三角形を呈するものである。


これらの石斧については、マラガンガール岩陰遺跡等の他の遺跡との層位的比較から2万年程の年代値が考えられている。III層出土石斧は粗い調整加工を施し刃部に研磨を施すものと打製のみのものに大きく分けることができる。また2、3のように三角形で厚みを持たない小型のものと、厚みのある長方形に近い形状の中形品に大きく分類することが可能である。1、4、5の中形品については柄装着痕である溝、または摩滅痕が認められる。I層出土の石斧との比較では、I層出土のものはほぼ全面に研磨を施すものが多く、厚みのある亜円礫を素材とし、敲打と研磨を行うもので占められているようである。年代値も7千年以降と考えられ、連綿と製作されてきたらしく民俗資料として最近のものが博物館に収蔵されている。

Ⅳ 日本の刃部磨製石斧


磨製石器は新石器革命の産物と考えられてきたものの、日本列島においても既に2万年前を遡り、姶良降下火山灰下位で特に刃部磨製石斧は出土例が増加しており、世界の石器文化の中で特異な存在として注目される。

しかしながら、日本から諸外国にその研究を情報発信したものは極めて少なく、筆者の知り得る限りでは小田静夫とチャールズ・キーリの「THE ORIGIN AND EARLY DEVELOPMENT OF AXE-LIKE AND EDGE-GROUND STONE TOOLS IN THE JAPANESE PALAEOLITHIC」(Oda, Keally 1990)の論巧のみであろう(4)。

それに先立ち1973年に同様に両氏の『物質文化』に発表した英文論文「EDGE-GROUND STONE TOOLS FROM THE JAPANESE PRECERAMIC CULTURE」が知られる。前者は日本の後期旧石器時代前半期の刃部磨製石斧を取り上げたものであり、後者は後期旧石器時代前半期のみではなく、縄文時代草創期の石斧についても触れている。

それ以外に小田静夫は南関東の1970年代に栗原遺跡高井戸東遺跡等に関わり、日本の刃部磨製石斧についてを取りまとめており、「日本最古の磨製石斧」『ドルメン』(1976)、「世界最古の磨製石斧」『考古学の世界』(1993)(5、6)で刃部磨製石斧の研究の方向性を決定付けている。

それ以前には岩宿遺跡での発見により1950年代でも磨製石斧かどうかの議論がなされていたようであるが、関東ロームの層位を基礎とした野川編年が確立した以降の研究は小田を中心として展開してきた。

広域火山灰姶良火山灰による広域編年が可能になり、また高井戸東遺跡では立川ロームX層中の炭化物から2万9千年±925年B.P.(N-2651)の年代値が得られるなど、刃部磨製石斧の研究が進んでいる。

最近では特に長野県野尻湖周辺の日向林遺跡貫ノ木遺跡、新潟県津南町正面ヶ原D遺跡では多量の刃部磨製石斧が出土しており、刃部磨製石斧を取り巻く新たな状況を生み出している。

東日本に片寄る傾向があるものの、最近では九州地方をはじめとする西日本でも、曲野遺跡耳切遺跡石の本遺跡、奄美大島の土浜ヤーヤ遺跡等が知られており、また岩谷史記による西日本の刃部磨製石斧の論巧があり(7)、その研究は西日本にも広がりを見せつつある。


日本列島の石斧は打製石斧、刃部磨製石斧共に認められ、刃部磨製石斧も調整加工の面では基本的には打製石斧と同様である。調整加工の後、刃部を磨くという特徴が認められるものであり、表面には部分的に礫面を残存させるものも見受けられるものの、これは磨製石斧として刃部を集中的に磨きあげると言う点では豪州のものと共通である。

日本列島の姶良降下火山灰以前の石斧についての研究は、形態的変遷観が小田静夫により既に提示されており、楕円形円刃、長楕円形直刃、長方形の順が考えられている。中には小型のもの、再生品も含まれるものの、総じて扁平で長方形のものが多いようである。


長野県日向林遺跡出土(8)のものとナワモイン岩陰遺跡、マラガンガール岩陰遺跡出土の石斧の長幅比較をしてみた。日向林遺跡出土の石斧は大部分が長さ3:幅2より上位にあり、豪州のものは下位に分布する傾向が強い。ナワモイン、マラガンガール岩陰遺跡の時期別でも長幅比は同様の傾向を示しており、豪州のものは長幅比ではなく形態、厚さ、整形技法に時期別特徴が顕われるようである。全般を通じて豪州のものは手斧(hatchet)に近い形態ものと考えられる。また伐採斧以外に武器としての機能が考えられている。


日本列島の石斧は出現時期から既に完成された形態を備えており、野尻湖、南関東等の一部に集中個所が点在するものの、北海道、四国を除き列島全域に広域分布する。また奄美大島の土浜ヤーヤ遺跡、東京都武蔵台遺跡出土の伊豆諸島神津島産の黒曜石の事例からすると、広域情報網、技術体系が既に確立されていた可能性が強く、日本列島内だけでこうした特異な状況にあったとは考え難い。今のところ日本列島近辺での状況は不明であるものの、豪州のものと同様に刃部磨製石斧については、前段階で周辺域からの適応放散の結果と考えられる。

Ⅴ おわりに


日本の石斧については狩猟採集、horticulture(9)、初期農耕の生産活動の転換期に石斧は質、量、製作技法共に変化を見せ、後期旧石器初頭、縄文時代初頭、弥生時代初頭とそれぞれの適応帯の変移に伴い出現していると考えられる。それに対して豪州の先史時代の石斧は2度の質的変化、尖頭器の新たな出現、貝塚の形成等の変化は認められるものの、それらは狩猟採集活動の同一の適応帯内での緩やかな変移であり、日本のような急激な適応帯の変移のような転換期を迎えないようである。


2001年に日本考古学、特に日本前期旧石器の研究に衝撃波が駆け抜けた。前期旧石器捏造事件が暴露された。

日本国内の前期旧石器研究は壊滅状態となった。日本考古学の石器研究をリードし、中枢を占めてきた研究者達の研究内容が似非学問だったと誹謗されても致し方ないことである。

極端なことを言ってしまえば、日本の極一部の研究者を除いて”石器を見る目”がなかったことが皮肉にも間接的に証明されたわけである。分からないことを如何にも分かったかのようなごもっともらしい解釈と理論、それが日本石器研究の実態であった。

小島国日本らしい前期旧石器研究は人類史的にも乖離した枠組の中で研究が押し進められてきた。20数年間も続いた捏造、虚構の研究から、今後日本石器研究は混乱、模索の時期に入る。


適応放散の結果、遠い大島国豪州に人間の足跡がいつ記されたのかの解明は、そのまま小島国日本にも同様にアプローチできる方法の可能性がある。その一つとして両島に見られる刃部磨製石斧とその年代であろう。豪州の年代値を考えると、日本の後期旧石器初頭を遥かに遡ることは極めて難しいだろうとの感を強くする。

註1 Shizuo Oda and Charles T. Keally、EDGE-GROUND STONE TOOLS FROM THE JAPANESE PRECERAMIC CULTURE、MATERIAL CULTURE、22、pp.1—26、The Society for the study of Material Cultures、1973、
註2 小林知生、オーストラリア北端発見の刃部磨製石斧、古代文化、3、pp.38—44、(財)古代学協会、1974
註3 Carmel Schrire、The Alligator Rivers prehistory and ecology in western Arnhem Land、The Australian National University、1982
註4 Shizuo Oda and Charles T. Keally、THE ORIGIN AND EARLY DEVELOPMENT OF AXE-LIKE AND EDGE-GROUND STONE TOOLS IN THE JAPANESE PALAEOLITHIC、Indo-Pacific Prehistory 1990、vol.3、Bulletin of the Indo-Pacific Association、No. 12、1992、pp.23—31、1990
註5 小田静夫、日本最古の磨製石斧、ドルメン、11、pp.96−109、JICC出版、1976
註6 小田静夫、世界最古の磨製石斧、考古学の世界、第2巻、株式会社ぎょうせい、1993
註7 岩谷史記、石斧覚書、先史学・考古学論究、III、pp.1—28、龍田考古会、1999
註8 谷 和隆、 日向林I石器文化の斧形石器、上信越自動車埋蔵文化財発掘調査報告書、15、pp.254—261、長野県埋蔵文化財センター、2000
註9 前田光雄、松ノ木遺跡の縄文時代石器群について、松ノ木遺跡Ⅴ、pp.294—302、高知県本山町教育委員会