第1章 死に至る経緯
「 我が県は西日本の落ちこぼれ的な存在である。九州、吉備、出雲、畿内のベルト地帯から外れた地域である。
南四国と言われるものの、考古学的には陽の当たることはまずない。太平洋に開いていることから地理的に黒潮文化圏と思われがちだが、黒潮に乗って椰子も文化も流れ着くことはない。大部分が生産性の低い山間部である。
イメージ的には明治時代の偉人たちと同じように豪放磊落な県民性だと思われがちだが、それも錯覚である。どちらかと言えば姑息な県民性である。いつまでも昔の偉人にしがみついて、それを飯の種にしている。反骨精神は過去のものである。
我が県の調査員は県市町村を合わせて40名に満たない。全国的にみて調査員の数は最低クラスである。その上、本当の意味での調査員、研究者と呼べる人間は10名以下である。寄せ集め部隊である。
かつて国体が開催され、それに合わせて、道路網の整備、会場の設営、空港の拡張が急ピッチで行われた。かつてなかった超緊急発掘が目白押しである。
医師が忙しすぎて、看護婦が手術していると似た状況である。俄仕込みの看護婦が見よう見まねで執刀しているようなものである。結果はどうなることやら。生身の人間の執刀ミスなら訴訟もんであるが、遺跡は誰が掘ろうと文句は言わない。壊されようが抹消されようが遺跡は黙して語らず、遺跡に口なしである。ありがたい。
行政内調査員にはどうして遺跡を掘るのかの命題はない。ただひたすら調査員は行政内で必要とされる発掘に従事する。言うまでもなく、行政内で必要とされる遺跡の発掘は開発に伴い邪魔な遺跡を処理することである。
できるだけの調査体制を整え、手間暇かけようとそこには自ずと限界がある。所詮、邪魔者扱いの悲しい運命がそこには待ち受けている。
原因者も金さえ出せば、調査内容は問わない。開発側は施工物件に欠陥があれば大きな社会問題となるものの、遺跡については無知なせいもあろうが、どのように発掘調査が実施されたかは全く無関心である。
国民の共有財産と謳い、発掘調査に費やされた税金の割りには、掘り出された遺物は倉庫で山積みになり、残るは罪障としての報告書のみである。報告書が出るだけでもまだ良い方かもしれない。
優秀で勤勉な調査員ほど多くの遺跡を発掘せざるを得ない状況にある。それは何を意味するのか。
勤勉であればあるほど、考える暇もなく、次から次へと飛び込んでくる仕事にのめり込んでいかざるを得ない状況がそこにある。ビンフォードもイアン・ホッダーも無縁な、現実の目の前の仕事が待ち受けている。冷ややかな注視の中で、道路が開通するまでにせめて自分の手で遺跡を掘り上げようとする、けなげな調査員の姿がそこにある。方法論も理論も無縁な発掘現場が待ちかまえている。命題は開発があるから掘る、壊されるから掘る、ただそれだけである。そしてとにかく報告書を出す。理想と現実のギャップは埋めようもなく、いつしか理想はルジメントとなって頭の片隅に追いやらる。
行政の中での調査員の位置付けは低い。どこも似たような状況であろう。1歳半になる愛娘、生まれたての息子、コイはコイでも金持ってコイ女房の扶養家族を抱えたお父ちゃんの仕事は?と聞かれて遺跡を壊すことですと答えるしか術はない。
上司に媚びへつらう隷属調査員に成り下がった調査員には未来はない。一家を養うために今日もユンボとスコップで遺跡破壊に励む。なんの後ろめたさがあろうぞ。文化庁も規制緩和を唱えているではないか。大学の教授は行政発掘の美味しい所取りに余念がないではないか。
映画「自転車泥棒」の父親だって生活に困れば、息子の目の前で自転車も盗まざるを得ない。そして捕まった父親は民衆に「お前は息子に何かを教えれることがあるのか」とこづかれる。
息子たちよ、私だってお前たちを養っていくためには遺跡破壊のお先棒を担がなければならないだろう。
1つの遺跡を破壊すれば息子たちに美味しいものを食べさせられる。2つ壊せばきれいな服を買ってあげられるかもしれない。5、6つも葬れば行政内で認められるかもしれない。好きなエビスビールも毎晩飲めるようになるかもしれない。10もやっつければ、家が建つかもしれない。その暁にはレクエムとして論文もどきでも遺跡に捧げよう。そして、嘘の涙の一つもこぼそう。
行政主導の考古学の世界で、行政内研究者は有り余る情報過多を充分活かせることもできず、コンテナ箱に押し潰されている。
漱石と鴎外は他に職業を持ち二足の草鞋を履きながらも名作を残し、片や芥川と太宰は文学を職業とし名作を残しながらも自殺に追い込まれていった状況と、現在の考古学は似ている。どちらを是とするのかは別問題として、発掘現場には多くの人達が関わり、マスコミに喧伝され、考古学は一見大衆化の時代を迎えたかのような感を受ける。
多くの市民が発掘現場を訪れ調査成果を享受する。しかしそれは調査のハレの部分のみで、「効率」の名のもとに進められた調査の全体像を知る機会はない。行政主導で進められる調査において一般市民の係わる余地は、在野の研究者以上に少ない。
市民参加と称する発掘調査が開催されるが、それは心地よいレクエーションに仕立て上げられ、本来の行政発掘とは違った次元のものである。国民の共有財産と言うものの、市民によるチェック機能はない。
また「効率」が果たして調査・研究の為のものか、経済効率優先の為かは、今の埋文行政を取り巻く状況からして明らかである。コンピューターウィルスの様に遺跡に忍び込み機能を麻痺させ、いつしか遺跡を壊滅状態に追い込む危険性を今の状況は孕んでいる。
調査員を医師に例えるならば、所謂「死亡診断書」作成にてんてこまいしている姿は哀れである。「第1章 死に至る経緯」から報告書を執筆しなければならいのも滑稽でもある。と隷属調査員は片田舎で酔狂なことを思ったりもする。」
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上の記事は随分昔に某雑誌に掲載したものです。再掲するにあたり、一部修正を加えています。
反響も大きかったですが、上司からにわか調査員を「看護婦」に喩えるのは良くないだろうとの批判をいただいたことを覚えています。
「看護婦」だったら技術的に熟練しており、なんら問題ないのですが、この頃の状況と今ではどう違うのか気になるところです。それで昔の文章をほじくり返してみました。
行政の中で市町村では体制が十分整ってもいない状況下で発掘会社に丸投げ状態にあります。それも仕方のないことだと認めるにやぶさかではないですね。
考古学知識も発掘経験も全くない他の部署から回された行政担当者が遺跡破壊につながる調査より次善の策であると思う。
担当者は発掘調査だけではなく、他の行政的な業務を抱えているのが通常であり、とてもじゃないが考古学的な技術を習得する暇も機会もない中で遺跡発掘は破壊でしかない。行政が自ら直営で調査した場合に俄仕込みの調査員でも調査員という肩書きで発掘したらどうなるか、行政だからという免罪符で内容は問われない。
当然、俄仕込みの調査員は報告書作成の経験もないので、掘り散らかし放題で報告書が陽の目をみることはない。報告書も丸投げ状態ですね。金さえ出せば解決すると思っている節があります。行政的に処理をすればいいとの考えに基づいているのでしょう。
瀕死の状態にあるにもかかわらず、遺跡も文化財も顧みられることはない。
タイトルの「第1章死に至る経緯」は哲学者キルケゴールの「死に至る病」から頂いています。この病とは自死です。キリスト教的な世界観からの著述ですね。
埋蔵文化財行政の中での病とはなにか?
「自壊」ですね。不十分な体制と調査員の未熟さでの行政的な自壊です。それを避けるにはどうすれば良いのか?
明確な答えは持ち合わせていないのが悲しい。
2022.4.24